第十三話 北の庭と、狼の王の素顔
翌朝、シンは約束通り北の庭に向かった。
ひとりで行こうとしたら、案の定、途中で二回迷子になった。一回目は使用人に助けてもらい、二回目はズィークに無言で正しい方向を指差してもらった。ズィークは何も言わなかったが、その目が「お前は本当に方向感覚がないな」と雄弁に語っていた。
北の庭は、思っていたより小さかった。
こじんまりとした石畳の通路が中央を走っていて、両脇に花壇が並んでいる。白と薄紫の花が、今が盛りとばかりに咲き誇っていた。周囲を低い石壁で囲まれていて、確かに人の気配がほとんどなかった。風の音と、遠くの鳥の声だけが聞こえる。
ガルはすでにそこにいた。
石造りのベンチに腰を下ろして、花壇を眺めていた。昨夜と同じく装いが比較的簡素で、上着も刺繍の少ない落ち着いた色のものを着ていた。謁見の間で見るガルより、ずっと人間らしく見えた。
「来たか」
「迷子になりました、二回」
「そうか」
「ズィークさんに助けてもらいました」
「報告は受けた」
「……もう来てるんですか、報告が」
「あいつは仕事が早い」
シンはベンチの端に腰を下ろした。ガルとの間に、こぶし三つ分くらいの距離を置いた。ガルはそれを特に指摘しなかった。
しばらく二人で、花を眺めた。
「綺麗ですね」
「ああ」
「名前は何ていう花ですか」
「ルーナフラワーだ。月見草に近い種だが、昼間でも咲く。この王宮の庭師が長年かけて品種改良したものだ」
「詳しいんですね」
「好きなものは調べる」
「さっき、静かな場所が好きでついでだって言いませんでしたっけ」
「……花も、嫌いではない」
「素直じゃないですね」
ガルが少し口元を動かした。否定はしなかった。
「ガルさんって」とシンは少し考えてから続けた。「外で見るのと、こうして話すのとで、かなり違いますよね」
「どう違う」
「外では——謁見とかでは、近寄りがたい感じがして。でも話すと、なんか、普通の人みたいで」
「普通の人みたい、か」
「悪い意味じゃないです。なんか、ほっとするというか」
ガルはシンを横目で見た。
「お前に言われると、なぜか悪い気がしない」
「なんでですか」
「わからん。そういうものだ」
シンは少し笑って、花壇に目を戻した。
「ガルさんは、王様になって長いんですか」
「二十のときに父が亡くなって、そこから八年だ」
「……若くして、大変だったんじゃないですか」
「大変だった」
あっさりと言った。シンは少し驚いた。もっと「苦労したが仕方ない」とか「王として当然だ」みたいな答えが来ると思っていた。
「大変だったって、正直に言うんですね」
「事実だからな。大変じゃなかったと言う方が嘘になる」
「……なんか、ガルさんはいつも正直ですよね」
「お前もだろう」
「僕は嘘が下手なだけです」
「俺は嘘をつく必要がないと思っているだけだ。方向性は違うが、結果は同じだな」
シンはその言葉を、少しの間、頭の中で転がした。
嘘をつく必要がない。
その言葉が、なんとなく羨ましかった。シンは嘘が下手なくせに、ずっと自分の気持ちを誤魔化してきた。傷ついていないふりをして、平気なふりをして、笑って流してきた。それは嘘じゃないのかと、少し思った。
「……ガルさん」
「なんだ」
「一個、聞いてもいいですか」
「言え」
「ガルさんは——本当に、僕に価値があると思っていますか」
ガルは即答しなかった。
すぐに返事が来なかったので、シンは少し焦った。聞かなければよかったかと思い始めた頃、ガルが口を開いた。
「お前はなぜ、それを疑う」
「……だって、僕は本当に不幸体質で、何もできなくて、迷惑ばかりかけていて」
「それは価値がないことの理由にならない、と言った」
「でも」
「シン」
ガルが、シンの方に向き直った。真っ直ぐな金色の目が、シンを見ていた。
「俺はお前に嘘をついたことがあるか」
「……ないです」
「ならば、俺が価値があると言えば、ある」
「そんな、論理が」
「単純な話だ。俺はお前が価値があると思っている。お前が価値がないと思っていても、俺の考えは変わらない。どちらを信じるかは、お前が決めることだが」
シンは黙った。
ガルの言葉はいつも単純で、真っ直ぐで、どこにも逃げ場がなかった。反論しようとしても、言葉の隙間がない。
「……難しいです、すぐには」
「わかっている」
「でも——考えます」
「それで十分だ」
ガルはベンチに背をもたせかけて、また庭を眺めた。シンも同じように、花壇を見た。
風が吹いて、ルーナフラワーが一斉に揺れた。白と薄紫の花びらが波のように動いて、それがとても綺麗だった。
「……綺麗だな」
ガルが静かに言った。
「はい」
シンも同じ景色を見ながら、頷いた。
それから気づいた。
ガルの視線が、花壇ではなくシンの方を向いていたことに。
「……え」
「花の話だ」
「今、僕の方を見ていましたよね」
「気のせいだ」
「見ていました」
「……北の庭に来た感想はどうだ」
「話を変えましたね」
「変えていない」
「変えました」
ガルは静かに前を向いて、何も言わなかった。
シンはその横顔を見て、頬に熱が集まるのを感じながら、慌てて花壇の方に目を戻した。
心臓が、少しうるさかった。
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第十四話「ガルを狙う影と、守ろうとした話」
北の庭から戻った翌日、王宮内がざわついた。
王宮の外壁近くで、不審な人物が見つかったという報告が入ったのだ。ズィーク率いる騎士たちが素早く動いて、その日のうちに身柄を確保したが、その人物が何者で、誰に雇われたのかはすぐには判明しなかった。
「政敵の可能性が高い」
夕方、ガルの執務室でズィークが地図を広げながら報告していた。シンは関係ないはずの話だったが、ガルに「いろ」と言われたのでソファの端に座って聞いていた。
「隣国のダーウィン侯爵派と思われます。以前から陛下の契約の弱点を探っているという情報があって、今回はそれに関連した動きかと」
「シンのことは知っているか」
「現時点では不明です。ただ、王宮に不思議な力を持つ人間がいるという噂は、すでに外に漏れている可能性があります」
ガルは静かに話を聞きながら、時折ズィークに確認を取っていた。二人のやりとりは無駄がなく、長年一緒に戦ってきたことが会話の端々に滲んでいた。
シンはそれを横目に聞きながら、胸の中で何かがざわりとするのを感じていた。
——ガルさんを、狙っている人がいる。
あたりまえのことだ、王である以上。頭ではわかっていた。でも、実際にそれが目の前に迫っていると知ると、思っていたより動揺した。
「シン」
急に名前を呼ばれて、シンは顔を上げた。
ズィークがこちらを見ていた。
「怖い顔をしている」
「……すみません」
「怖いのか?」
「怖いというより……心配で」
「誰の?」
「……ガルさんの」
ズィークが、少し目を細めた。
ガルはシンを見て、静かに言った。
「俺のことを心配するな」
「でも」
「お前が心配することではない」
「そんなこと言っても」
「シン」
「心配はします、しますけど——」シンは少し語気を強めて言った。「でも——何かできることがあれば、したいです」
静かな言葉だったが、はっきりしていた。
ガルとズィークが、同時にシンを見た。
「何かできること、とは」とガルが言った。
「わかりません。でも、ガルさんの涙の話が、そのダーウィン侯爵とやらに関係があるなら——僕がいることが、少しでも役に立てるなら」
「お前を危険な場所には置かない」
「僕が決めます、それは」
ガルの目が、微かに動いた。
シンは自分が少し大きな声を出したことに気づいて、少し縮こまった。でも、言ったことを取り消す気にはなれなかった。
「……すみません、生意気なことを言いました」
「生意気とは思わない」
ガルは静かに言った。
「ただ——お前に怪我をさせたくない」
「僕は不幸体質なので、何もしなくても怪我します」
「それは別の話だ」
「似たようなもんです」
ズィークが、小さく噴き出した。
ガルとシンが同時にズィークを見ると、ズィークはわざとらしく咳払いをした。
「……失礼。続けてくれ」
「笑っただろう」とガルが言った。
「笑っていない」
「口が動いた」
「気のせいだ」
シンはその様子を見て、少し気持ちが軽くなった。さっきまでのざわざわとした感覚が、少し遠のいた。
ガルはシンに向き直って、真剣な顔で言った。
「お前の気持ちは受け取った。ただ、今は俺とズィークに任せてくれ。お前には——別の形で頼みたいことがある」
「別の形?」
「今夜、俺の隣にいてくれ」
「……え」
「痛みが出そうだ。今日は少し、体が重い」
シンは一瞬、言葉に詰まった。
「……そういうことなら、いますけど」
「頼む」
「でも、泣かないといけませんか」
「泣かなくていい」
「涙じゃないと効果ないんじゃ」
「効果はそれでいい。ただ——傍にいてくれれば、それで十分だ」
シンは、ガルの顔を見た。
普段と変わらない、落ち着いた顔だった。でもよく見ると、目の端に微かな疲れの色があった。こんな顔も、するんだ、とシンは思った。
「……わかりました。います」
「ありがとう」
ガルが「ありがとう」と言うのを、シンは初めて聞いた気がした。




