第十二話 夜の廊下で、ガルの隣
その夜、シンは眠れなかった。
別に、何か特別なことがあったわけではない。ただ夜中に目が覚めて、そのまま眠れなくなった。頭の中が静かすぎると、いろんなことを考えてしまう。ルカのこと。家族のこと。これからのこと。
そういう夜が、シンには多かった。
「……水でも飲もうか」
寝台から抜け出して、廊下に出た。王宮の夜は静かで、たまに見回りの兵士が通るだけだった。水を汲める場所は一階にあって、シンはそこを目指して歩いた。
廊下はほんのりと壁の燭台に照らされていて、昼間より落ち着いた空気が漂っていた。
水を汲んで、一口飲んで、さてまた眠れるだろうかと思いながら廊下を戻っていたとき。
中庭に面した窓の近くに、人影があった。
「……あれ」
シンは足を止めた。
窓枠に肘をついて、夜の庭を見ている大柄な人影。銀灰色の髪が、月明かりに照らされていた。
「ガルさん?」
振り返った顔は、確かにガルだった。今日は装いが崩れていて、シャツ一枚に簡単なズボンという格好で、普段の威圧感より、ずっと素の表情をしていた。
「シン。眠れないのか」
「目が覚めてしまって。……ガルさんは?」
「同じだ」
ガルは窓の方に向き直った。シンは少し迷ってから、ガルの隣に並んで立った。
二人並んで、夜の庭を見る。
庭には月明かりが落ちていて、手入れされた芝生がうっすらと光っていた。遠くに噴水の水音が聞こえる。
「……今日は痛みがあるんですか」
シンが静かに聞くと、ガルは少し目を細めた。
「今日は大丈夫だ。ただ、眠りが浅い夜がある」
「そうですか」
「お前は? 何か考えていたのか」
「……少し。いろんなことを」
「家のことか」
「半分。あとは——ここのことを」
「ここ?」
「王宮に来て、一週間くらい経って。最初は不安しかなかったんですが」
シンは水の入ったコップを両手で持ちながら、庭を見つめた。
「今は……なんか、不思議な感じで。怖いというより、いるのが当たり前になりつつある気がして」
「それは良いことだろう」
「いいことなのか、悪いことなのか、まだよくわからなくて」
「なぜ悪いことだと思う」
「……どうせいつかは帰るのに、慣れてしまったら」
ガルは少しの間、黙っていた。
「帰らなければいい」
「そんな簡単に」
「簡単だ」
「……ガルさんは本当に、全部が簡単そうに聞こえますよね」
「簡単に解決できることを複雑にする必要はない」
「解決できないこともあります」
「例えば」
「例えば——僕が不幸体質なこととか」
「それは問題ではない」
「厨房が爆発しましたよ今日」
「把握している」
「謁見の間でも」
「把握している」
「ベルトさんの白髪が」
「把握している」
「……全部知っていたんですか」
「王宮で起きることは一通り報告が来る」
シンは少し頭を抱えた。
「……恥ずかしい」
「なぜ」
「失敗を全部見られているみたいで」
「見ている」
「それを言い切らないでほしいんですが」
ガルは少し、口の端を上げた。
「見ているが——どれもお前が悪いとは思っていない。お前はその都度、きちんと謝って、片付けを手伝おうとしている」
「当たり前じゃないですか」
「当たり前にできない人間は多い」
シンは何も言えなかった。
「お前は自分を責めすぎる」とガルは静かに続けた。「起きた不運を全部自分のせいにして、謝り続ける。それは正直、見ていて苦しい」
「……でも、実際に迷惑をかけているので」
「迷惑をかけることと、お前が価値のない人間であることは、別の話だ。前にも言った」
「……はい」
「わかっているか」
「……わかろうとしています」
「わかろうとしている、か」
ガルはそこで、シンの方に向き直った。夜の光の中で、金色の目がシンを見ていた。
「正直だな、お前は」
「嘘が下手なので」
「ズィークと同じことを言う」
「ズィークさんにも言いました」
「あいつが、お前のことを悪くないと言っていた」
「……そうなんですか」
「あいつが誰かをそう言うのは珍しい」
シンは少し、温かい気持ちになった。
「……嬉しいです、それ」
「お前のことが気に入ったんだろう」
「気に入られるようなことしていないと思うんですが」
「しているんじゃないか」
二人の間に、静かな沈黙が流れた。嫌な沈黙じゃなかった。ただ夜の空気と水音と、二人分の息づかいだけがある、穏やかな時間だった。
「シン」
「はい」
「明日、庭を歩かないか」
「庭を?」
「王宮の北側に、あまり人が来ない庭がある。花が今、見頃だ」
「……王様が庭の花の見頃を把握しているんですか」
「悪いか」
「悪くないですけど、なんか、意外で」
「俺にも好きなものがある」
「花が好きなんですか」
「静かな場所が好きだ。花はついでだ」
シンはくすりと笑った。
ガルがその笑い声に、少し目を細めた。
「笑ったな」
「……おかしいですか、笑ったら」
「おかしくない。その顔が好きだと言っている」
「また言う」
「本当のことだから何度でも言う」
シンは頬が熱くなるのを感じて、コップに視線を落とした。
「……明日の庭、行きます」
「そうしろ」
「転ばないように気をつけます」
「転んでも、手を貸す」
「転ぶ前提で言わないでください」
「事実に基づいている」
「……ひどい」
シンはそう言ったが、口の端は上がっていた。ガルもまた、珍しくはっきりと笑っていた。
夜の廊下で、二人並んで笑っていた。
それが、シンには——思いがけないくらい、温かかった。




