第十一話 厨房の爆発と、ズィークの本音
謁見の間の件から二日後。
今度は厨房で、事件が起きた。
シンは悪気があったわけではなかった。ただ、子どもたちから「シンのおやつが食べたい」とねだられて、黒猫族の伝統菓子を作ってやろうと思っただけだった。厨房長に許可をもらい、隅っこの作業台を借りて、材料を揃えた。
最初の三十分は、順調だった。
「……よし、うまくいってる」
生地を丸めながら、シンは小さく頷いた。このまま上手くいけば、子どもたちに持っていってやれる。
しかしその時、鍋の火加減を見ようと身を乗り出したシンの尻尾が、隣の棚のつまみに引っかかった。
棚が揺れた。
棚の上の調味料の瓶が三本、連鎖的に倒れた。
そのうちの一本が、シンが使っていた生地の鍋に落ちた。
何が入っていたのかは後で判明したが、その瓶の中身は発酵途中の特殊な調味料で、加熱するとガスが発生するものだった。
「……あれ」
鍋の中身が、みるみるうちに膨らみ始めた。
「え、ちょっ」
ぼふん。
盛大な音と共に、鍋の中身が噴き出した。天井まで届いた。シンも、周囲の作業台も、壁も、天井も、白い粘着質なものでべったりと覆われた。
厨房が、一瞬で静まり返った。
全員がシンを見た。
「…………すみません」
シンは白いものを顔から拭いながら、静かに言った。
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報告を聞いたズィークが厨房に飛んできたのは、それから十分後だった。
厨房の惨状を見て、一瞬絶句した。
「……何があった」
「棚の調味料が鍋に」
「なんで棚が倒れた」
「尻尾が引っかかって」
ズィークはゆっくりと額に手を当てた。
片付けを始めた使用人たちが忙しなく動く中、シンは端っこでしょんぼりと座っていた。頭の上にまだ白いものがついていて、黒い耳が申し訳なさそうに垂れていた。
ズィークはシンの隣にどかりと座った。
「怪我は」
「ないです」
「そうか」
しばらく、二人とも黙っていた。
「……ズィークさん、怒っていますか」
「怒っていない」
「顔が」
「これが俺の平常運転だ」
「ベルトさんと同じこと言いますね」
「長く一緒にいるからな」
ズィークは腕を組んで、シンを横目で見た。
「ひとつ聞くが」
「はい」
「自分で不幸を呼んでいると思っているか」
「……そう言われ続けてきたので、そうだと思っていました」
「今は?」
シンは少し考えた。
「今も、たぶんそうなんだとは思います。でも……ここに来てから、少し違う気もしていて」
「何が違う」
「家だと、何かやらかすたびに、みんながため息をついて、僕のせいで不運が起きたって顔をしていました。ここでも、迷惑はかけているんですが——なんか、怒り方が違うというか」
「怒り方が?」
「呆れられたり、困られたりするんですけど、見捨てられる感じがしなくて」
ズィークは黙って聞いていた。
「ベルトさんは毎日ため息をついていますけど、毎日ちゃんと来てくれるし。子どもたちは笑ってくれるし。ガルさんは——なんか、全然動じないし」
「ガルがな」
「はい」
「あいつは昔から、他の人間が怖がるものを怖がらない」とズィークは少し遠い目をして言った。「子どもの頃から、周りが引くものに平気で近づいていった。怪我した獣とか、荒れた海とか、そういうもの」
「……怖いもの知らずなんですね」
「違う」
ズィークはきっぱりと言った。
「怖くないんじゃなくて——価値があると思ったら、怖さよりそっちが勝つんだ。あいつは」
シンは、黙った。
ガルが、シンに価値があると思っている。
昨日もそう言っていた。でも、こうして別の人間から聞くと、また違う重みがあった。
「……ズィークさんは、ガルさんのこと、好きなんですね」
「当たり前だ。腐れ縁の幼馴染だ」
「最初に会った時、すごく怖かったです」
「そうか」
「でも今は、そんなに怖くないです」
「……なんでだ」
「真っ直ぐな人だなって思うので。怖いとか嫌いとかじゃなくて、ガルさんのことが心配だから厳しくしているんだって、わかるから」
ズィークは少し間を置いた。
「……なんで俺の心配がわかる」
「ズィークさん、ガルさんの話をする時だけ、目の温度が上がるので」
「……そんなにわかりやすいか、俺は」
「わかりやすいです」
ズィークは微かに眉根を寄せて、それから小さく鼻で笑った。
「……お前、最初に会った時より、ずいぶん喋るようになったな」
「そうですか?」
「最初は遠慮ばかりしていた」
「ここ、なんか、喋りやすい人が多くて」
「そうか」
ズィークは立ち上がって、片付けを続けている使用人に声をかけた。シンも立ち上がろうとして、また足を滑らせた。
「っと」
ズィークが咄嗟に腕を掴んだ。
「……ほら見ろ、まだ床が汚れている。気をつけろ」
「すみません、ありがとうございます」
「俺がお前を信用していないのは変わっていない」とズィークはシンの腕を離しながら、ぶっきらぼうに言った。「だが——まあ、悪いやつじゃないのはわかった」
「ありがとうございます」
「礼を言うな、褒めていない」
「褒めてますよ、その言葉」
「褒めていない」
「褒めています」
ズィークは舌打ちして、さっさと廊下へ出ていった。
シンはその背中に向かって、小さく頭を下げた。




