第36話 川と門番
川に近づくにつれ、人の形をしたものが増えてきた。
ゆっくりと歩いている。方向もなく、目的もなく、ただ漂っているような動きだ。近づいても、こちらを見ない。音がない世界で、彼らは彼らの時間を過ごしている。
死者たちだ、と思った。
害はなさそうだった。ただ、どこか澱んでいる。流れているはずの水が、淀んだ池になっているような感じだ。川があるのに、死者たちは川に向かっていない。川のそばで止まったまま、動けずにいる。
川に辿り着いた時、理由がわかった。
川に、門があった。
石造りの古い門で、両側に柱が立っている。門の向こうは川の先で、光が見える。死者たちが向かうべき場所なのだろう。だが門は閉じられていた。鍵がかかっている。
門の前に、一人の人影があった。
老人の形をしている。腰が曲がり、杖をついて立っている。死者ではない。何か別の存在だ。
「珍しいな」
老人が振り返った。目がない。目があるべき場所が、ただの空白だ。だが、こちらを見ているのはわかった。
「生きたまま来た者は、久しぶりだ」
「門番ですか」
「そうだよ。もう長いこと、ここに立っている」
私は門を見上げた。
「なぜ閉まっているのですか」
「閉めた者がいるからだ」老人が答えた。「百年ほど前から、閉まっている。誰かが外側から鍵をかけた。私には開けられない」
「死者たちが、向こうに行けなくなっている」
「そうだ。だから溜まっている。川に流れ込めずに、あちこちを漂っている。時間が経てば経つほど、澱になっていく」
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「鍵をかけた者の目的は何ですか」
老人がしばらく黙ってから答えた。
「魂を溜めることだろう。死者が循環しなければ、魂の力がここに積み重なる。それを使おうとしている者がいる」
「この世界の腐敗と繋がっていますか」
「繋がっているとも。扉の向こうに流れていくはずの力が、別の方向に抜け出ている。お前たちの世界に、汚れとなって溢れ出している」
つまり、冥界の詰まりがこの世の腐敗の源だった。排水管が詰まれば、汚水が逆流する。それと同じことが、百年続いていた。
「鍵は取り除けますか」
「お前ならできるかもしれない。ただ、鍵は門の外側にある。門を壊さずに開けるには、鍵そのものを消す必要がある」
「鍵はどこにありますか」
老人が川の上流を指した。
「上流の岩場に、黒い石がある。それが鍵の本体だ。百年前にここに置かれた。取り除けば、門は自然に開く」
「誰が置いたのですか」
「名前は知らない。ただ、お前たちの世界から来た者だ。魔法を使える、強い力を持った者だった」
私は少し考えた。百年前。クレアの母が冥界に来たのはいつだろう。国王は詳しく話さなかった。
「一つ聞いていいですか。以前、ここに来た者はいますか。女性で、私と同じように生きたまま」
老人が少し間を置いた。
「いた。ずいぶん前だ。門を開けようとしていたが、力が足りなかった。鍵を壊せなかった。ただ、何かを残していった」
「何を?」
「岩場に行けばわかる」
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上流に向かって歩き始めた。
川沿いの道を進むと、死者たちの姿が減っていく。上流に近づくほど、空気が少し変わる。重さが増す感じだ。
岩場が見えてきた頃、日傘を持つ手に、かすかな温もりを感じた。
気のせいかもしれない。でも、確かに感じた。
岩場に辿り着くと、大きな黒い石があった。表面に古い文字が刻まれている。ネーベル・アルバがくれた一覧表で確認すると、「封」という意味の古語だった。
その横に、小さなものが置いてあった。
白い布に包まれた、小さな何かだ。百年近く経っているのに、布は傷んでいない。
手に取ると、中から出てきたのは、小さなボタンだった。白い、丸いボタン。どこかで見たような気がした。
「母のものかもしれませんわね」
声に出すと、無音の冥界に少しだけ、音が戻った気がした。
戻ったら、国王に聞こう。今度こそ、全部話してもらう。
黒い石の前に立ち、日傘を構えた。さあ、おそうじを始めますわ。




