第35話 廃坑の前で
翌日、ネーベル・アルバが宿を訪ねてきた。
手に分厚い封筒を持っている。中には、手書きの図面と、暗号の一覧表が入っていた。
「冥界に入るための準備として、これを渡しておきます。冥界の内部でどんな表示や記号に出会っても、この一覧があれば読めるはずです」
「ありがとうございます。あなたは一緒に来ますか」
男が少し迷ってから、首を振った。
「私は行けません。娘に会うまでは、死ぬわけにいかない」
「わかりましたわ」
「一つだけ、伝えておくことがあります」
ネーベル・アルバが真剣な顔をした。
「冥界にいる何かは、長い時間をかけてこの世界に澱を作ってきました。ただ収奪しているだけではない。冥界で何かが詰まっているから、それがこちら側に溢れ出している可能性があります」
「つまり、向こう側にも被害者がいるかもしれない、ということですわね」
「そう考えた方がいいと思います。全部を燃やせばいいという話ではないかもしれない」
「分別が必要ですわ」
「……あなたはやはり、噂通りの方ですね」
「どんな噂ですか」
男が苦笑した。それには答えなかった。
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その日の午後、三人で廃坑に向かった。
モルトの南、街道を外れて山道を三時間ほど歩いた先に、坑道の入口があった。板で塞がれていたが、リタがあっさりと外した。
中は暗く、冷たい空気が漂っている。ランタンを持って入ると、石壁に古い掘削の跡が残っていた。百年前に閉山した鉱山の、静かな残骸だ。
坑道を進むにつれ、空気の質が変わっていった。冷たさが増し、音が吸い込まれるような感覚がある。
「ここから先は、私だけが入りますわ」
「承知しています」とシリルが言った。「ただ、入口でお待ちします。どのくらいで戻りますか」
「わかりません。冥界の時間は現世と違うから」
「では、現世で三日経っても戻らなければ」
「その時は国王に連絡を。ただ、引き返しには来ないでちょうだい。あなたたちが入れば、戻れなくなる」
シリルが少し間を置いてから頷いた。リタがハサミをチャキッと鳴らした。止めるつもりはない、という意味だとわかった。
日傘を手に持ち直した。錨だ。これさえ握っていれば、現世との繋がりは保てる。
坑道の奥に、ぼんやりとした光がある。境界だ。近づくにつれ、周囲の音がなくなっていく。自分の足音も、ランタンの炎の揺れる音も、何も聞こえない。
光の前で、私は一度だけ振り返った。
シリルとリタが入口の影に立っている。二人の顔はもう見えないが、いる気配はわかった。
「行ってきますわ」
誰にも届かない声で、それだけ言った。
そして、光の中に踏み込んだ。
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最初に感じたのは、無音だった。
次に、重さのなさだ。体が軽くなったような、浮いているような感覚。足元に何かがある気がするが、見えない。
周囲が、ゆっくりと形を持ち始めた。
灰色の空。枯れた木が並ぶ、広い野原。遠くに、川が見える。水は動いているが、音がしない。
冥界だ。
手の中の日傘を確かめた。ある。現世との繋がりは切れていない。
風もなく、鳥もなく、ただ静かな場所が広がっていた。これが死者たちの世界なのかと思ったが、生き物の気配がない。人の形をした何かが、遠くをゆっくりと歩いているのが見えた。
「分別が必要」というネーベル・アルバの言葉を思い出した。
全部を燃やすのではなく、詰まりだけを取り除く。排水管のおそうじと同じだ。
川の方向に向かって、歩き始めた。
宿に残してきた夕食のことを、なぜかふと思った。シリルが準備してくれていたはずだ。戻った時に、温かいものが食べられたらいい。そう思いながら、灰色の野原を進んだ。




