第32話 冥界の準備
二日後、再び国王を訪ねた。
今日は地図だけでなく、古い書物も机の上に広げられていた。羊皮紙に書かれた文字は古語で、私には読めない。シリルが隣でさらりと解読し始めたのには、少し驚いた。
「冥界への入口は、モルトの南にある廃坑の奥です」国王が地図を指した。「かつて銀を掘っていた鉱山で、百年前に閉山した。坑道の最深部に、境界がある」
「境界、というのは」
「冥界と現世の膜が薄くなっている場所だ。普通の人間が踏み込めば、意識が冥界に引き込まれて戻れなくなる。ただ、強い魔力を持つ者は、意識を保ったまま踏み込める可能性がある」
「可能性、ですか」
「確実ではない。ただ、過去に冥界に入って帰ってきた人間が、この国に一人だけいた」
「誰ですか」
国王がこちらをまっすぐ見た。
「お前の母親だ」
部屋が、静かになった。
私は少し間を置いてから、口を開いた。
「母が、冥界に入ったことがあると」
「ああ。それが、お前が始末屋になった理由とも繋がっている。ただ、その話は——」
「今はまだ、話せる段階ではない、ですわね」
「……すまない」
「構いません」
私は静かに息を吐いた。母のことは、ずっと多くを知らないままだった。今日も、全部はわからない。でも、少しだけ近づいた。
「冥界に入るために、何が必要ですか」
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国王が教えてくれたのは、三つのことだった。
一つ目は、現世との繋がりを保つための「錨」が必要だということ。冥界に引き込まれないよう、現世に意識を繋ぎとめるものだ。強い感情や記憶に結びついた物が有効で、人によって異なる。
二つ目は、冥界の住人は生きている人間の声を聞けるが、姿を見ることはできない。接触するには、特定の方法が必要だということ。
三つ目は、冥界の時間は現世と流れ方が違う。長く留まれば留まるほど、現世との感覚がずれていく。
「一つ目の錨は、何が適切かわかりますか」国王が聞いた。
「少し、考えますわ」
屋敷に戻る馬車の中で、シリルが静かに言った。
「お母様のこと、知っていましたか」
「何も聞かされていなかったわ。幼い頃に亡くなったとだけ。それ以上は、誰も話してくれなかった」
「そうでしたか」
しばらく沈黙が続いた。
「錨は、何にしますか」
私は少し考えてから答えた。「日傘にしますわ」
「日傘、ですか」
「母が持っていたものだと、小さい頃に聞いたことがあります。正確かどうかはわかりませんけれど」
シリルが頷いた。それ以上は何も言わなかった。
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その夜、私は久しぶりに日傘を手に取った。
普段は魔導杖として使っているが、今日はただ持っているだけだ。骨組みの細工が、古い職人の仕事だとわかる。どこで作られたものかは知らない。母のことも、ほとんど知らない。
でも、この日傘を持っている時だけ、少しだけ何かが近くにある気がする。
リタがお茶を持ってきた。無言で置いて、下がっていった。
いつもの緑茶だ。一口飲むと、渋みがすっと広がった。
冥界に入る前に、もう一つ確認しておくことがある。ネーベル・アルバがなぜ冥界と繋がっているのか、まだわからない。消えた七年前に、何があったのか。モルトに行けば、その糸口が掴めるかもしれない。
まず、モルトだ。冥界の入口はその先にある。




