第26話 台帳の中身
夜明け前に起きた。
宿の廊下は静かで、管理人の女性もまだ動いていない。シリルだけが、すでに外出の準備を終えて待っていた。リタはいつの間にか姿を消していた。先に出て、周囲の安全を確認しているのだろう。
水路の橋に着いたのは、空がようやく白み始めた頃だった。
フィノはすでにそこにいた。厚い布の鞄を胸に抱えている。顔色が悪く、一晩眠れなかったのが見てわかった。
「来てくれましたね」
「約束しましたから」
フィノが鞄を差し出した。受け取ると、ずっしりと重かった。
「五年分です。毎月の送金記録と、私が独自につけていた台帳。それから、半年前からの予算変更の通知書が原本ごと入っています」
「原本を?」
「どうせ、もう慈善局には戻れないと思いまして」
フィノが苦く笑った。
「台帳を持ち出したことは、遅かれ早かれ気づかれます。私はこれから、この国を出るつもりです。妻と子どもを連れて、王都の方に親戚がいるので」
「急いで動いてください。今日中に出発できますか」
「馬車の手配は昨日のうちに済ませました」
「わかりました。安全な旅を」
フィノが一度だけ頭を下げ、足早に去っていった。その背中を見送りながら、シリルが静かに言った。
「彼が出国できるか、リタに確認させましょうか」
「お願いしますわ」
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宿に戻って、台帳を広げた。
フィノの字は細かく丁寧だった。日付、金額、送金先、備考。五年間、一ページも欠かさず記録してある。几帳面な人間だったのだと思った。
シリルが送金先のページを指した。
「半年前から急増していますね。それ以前は、月に一度、小さな金額が動いているだけです。ただ——」
「ただ?」
「この小さな送金も、五年前から続いています。カルド局長が来る前から、すでに何かが動いていた」
「ヴァルタス猊下が大聖職者に就任したのは十五年前。その頃から少しずつ始まって、半年前に一気に加速した、ということですわね」
「台帳以外にも、こちらが気になります」
シリルが一枚の紙を抜き出した。五年前の日付が書かれた書状だ。文面はこの国の言語だが、末尾に見覚えのある記号がある。
「暗号ですわね。フォル・ネビュラの書類と同じ形式」
「はい。つまり、フォル・ネビュラと聖教国は、同じ人間が作った仕組みで動いていた可能性があります」
「ネーベル・アルバが設計した経路を、今も誰かが使っている」
「そう考えるのが自然です」
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午後、私は再び大聖堂を訪れた。
今日は礼拝ではなく、目的がある。昨日確認した地下への扉の場所を、もう一度確かめるためだ。
礼拝客に混じって奥の廊下を進むと、昨日見た場所に扉があった。白い壁に溶け込んでいるが、継ぎ目がわかる。鍵はかかっている。
扉のそばに立った聖務局の係官が、私を見た。
「礼拝の方はこちらではございません」
「失礼しました。道に迷ってしまって」
「礼拝室はあちらです」
「ありがとうございます」
素直に引き下がった。無理に入る必要はない。扉の位置と、警備の人間の数を確認できれば十分だ。
宿への帰り道、シリルから短い報告が届いた。リタがフィノの馬車を確認した。無事に出発し、国境へ向かっているという。
よかった、と思った。
夕食は管理人の女性が、珍しく温かいスープの代わりに、焼いたパイを出してくれた。中に肉と野菜が入っている。
「今日は少し特別なものを」
「どうして?」
「あなたたちが来てから、施設の方々の顔が少し明るくなったと、テレーズ様が言っていました。それが嬉しくて」
私はパイを一口食べた。外はパリッと、中は柔らかく温かい。
「ありがとう。とても美味しいですわ」
管理人の女性が、また少しだけ笑った。
台帳はある。証拠は揃い始めている。次は、これをどう使うかだ。カビを根ごと取り除くために、あと何手が必要か。夜、パイを食べながら、私は静かに考えた。




