34:麦は謳う
「あとは二十分くらい焼くだけ。ただ、しっかり膨らんで、割れ目の間にも焼き色がついて、全体が乾いた状態まで行かないと、出した瞬間しぼんじゃう」
「なるほどね。ちょっと気をつけて焼くよ」
「じゃぁあたし、今のうちに中に詰める、クリーム作っちゃうわね」
今度は砂糖と粉が用意されて、鍋に入れたミルクと卵の黄身に、振るいながら混ぜられた。
「こっちもこうやって、あとは火加減見ながらかき回すだけ」
厨房おばさんが釜から離れて、イサさんの手元を見に行く。
「へぇ、簡単だね」
「でしょ」
これで釜は釜でちゃんと気にしてるんだから、おばさんって生き物は奇妙だ。
どうやったら背中のほうにあるものを、把握できるんだろう?
「で、こんな感じになったら、冷ましてでき上がり。後はこれを、中に詰めるだけ」
「こりゃおいしそうだねぇ」
厨房おばさんの言うとおり甘い匂いがして、たしかにおいしそうだ。
すごくすごくつまみ食いしたい。でもその衝動を、がんばって抑え込む。
食い物の恨みは怖い、父さんはよくそう言ってた。
うっかり一口食べたせいで、一生酷い目に遭う話もいっぱい聞いた。
そういう目に遭うって分かってるものを、「おばさん」なんて恐ろしい種族からかすめ取ったら、命がいくつあったって足りはしない。
おばさんたちは僕の心の叫びなんてお構いなしに、井戸端会議に花を咲かせてた。
「あぁそうだ、イサ、思い出したんだがね」
厨房おばさんが言う。
「橋の工事の人足に麦を払うって話、ホントかい?」
「本決まりじゃないけど、そういう話は出てると思う」
「なら、相談があるんだよ」
珍しく真剣な顔で、厨房おばさんがイサさんに訊いた。
「実はあたしの出は、山の上のほうでね。寒くてあまり麦が取れないんだ。一年中雪があるくらいだから」
「あー、寒すぎるのね」
僕もそういう話は聞いたことがある。
植物はどれも適した場所があって、そこを外れたら上手く育たない。
「寒いだけじゃなく、何せ山の北側だからね。日がそんなに当たらないんだよ」
だとすると厨房おばさんの出身は、領地の南東、マヌグス領との境の山の上だ。
たしかにあそこは貧しくて、ちょっと不作だと飢え死にが出る場所だった。
「だからさ、もし給金が麦で出るなら……村の者に知らせようかと思ってねぇ。正直、金をもらう以上にありがたいんだよ」
「なるほど……」
イサさんが考え込む。
少し下を向いて口のあたりに手をつけて考え込んでる様子は、それだけ見たらちょっと可愛い。
でも腹の中で何を考えてるのか想像すると、背筋がなんだか寒くなる。
「とりあえずそれ、姫さまに言ってみる。黙ってるよりは、言ったほうがいいだろうから」
「恩に着るよ。っと、どうやら焼けたみたいだ。出すよ」
厨房おばさんが釜を開けると、ころころしたきつね色のものが、たくさん出てきた。
「よかった、しっかり焼けてる。これならしぼまないわ」
「その辺は任しとくれ。ダテに三十年近く、釜の番をしちゃいないよ」
三十年って、僕が生まれる前からじゃないか。
だとするとこの厨房おばさん、いったい何歳なんだろう?
恐ろしくて訊けないけど。
「で、この中に、このクリームを詰めてでき上がり」
「詰める? どうやるんだい?」
「ナイフ貸して」
イサさんが小さいナイフを受け取って、上のほうをすぱっと切った。
「焼けたこの皮ね、こういうふうに中が空洞なのよ。ここへ詰めるの」
「分かった、ならあたしもやるよ」
おばさん二人がナイフを手に、すぱすぱ皮を切っていく。
ただ何しろ数が多いから、すぐには終わらなかった。
「間に合うかな?」
「いざとなったらイサ、あんたは先にお茶会にお行きよ」
「ありがと、そのときはそうさせてもらうわ」
それを見ながら、僕はただ座るだけだ。
つまみ食いはぜったいできないし、かといってここを出るわけにもいかない。
レシピをいつイサさんが、書くって言いだすか分からない。
そのとき居なかったら、あとで何を言いふらされるか。
それにもし僕がレシピを書きとめれば、そのことが姫さまの耳に入るかもしれない。
そうなればもっと、お近づきになれるかもだ。
そんなことをいろいろ考えてる僕の横を、子供が駆け抜けた。




