第三十三章
栞は、すぐには答えなかった。
光が揺れ、霧がざわめいているのに、彼女だけが時間から切り離されたように、そこに立っている。
「……朔」
名前を呼ぶ声が、少し遅れて届く。
その声には、さっきまでの震えはなかった。
代わりに、何かを必死に押さえ込む硬さがあった。
「優しいね」
ぽつり、と。
朔は息を詰める。
「……でも」
栞は目を伏せる。
「それが、どういう気持ちなのか」
「私、まだ……」
言葉を探し、見つからず、首を振る。
「ごめん」
短い謝罪。
それ以上、何も言わない。
朔は分かってしまう。
ここで言葉を重ねても、栞は答えを出せない。
彼女は、今も「選んでいる途中」だ。
そして――
選ぶには、もう時間が足りない。
霧が、はっきりと形を変え始める。
広場の中央から、一本の道が浮かび上がる。
白く、細く、けれど確かに「外」へと続く道。
朔の胸が、強く脈打つ。
「……来たな」
誰かの声が、遠くでする。
迎えだ。
名前を呼ばれたわけでもない。
誰かに背中を押されたわけでもない。
それでも、朔には分かった。
これは、自分の番だ。
「行こう、栞」
朔は栞と向き合い、肩を持つ。
「朔……」
栞の瞳が潤む。
「俺…栞に言ったよね。『君と帰りたい』って…」
栞は朔を見つめている。
「だからさ……、だから…一緒に帰ろう」
栞の唇が震えている。
朔は叫ぶように強く言う。
「俺を選ばなくても、いい!彼氏と結婚してもいい!だから…だから…今は…」
朔の言葉が詰まる。
霧の色が薄くなる。
「今は……、俺と帰ることを……選んでくれ……」
栞の頬に、涙が流れる。
朔の目にも、涙が浮かんでいた。
「…朔…」
「……帰るんだ……栞……」
霧は待たない。
光が弱くなっている。
「…帰る…。あなたと一緒に…」
「栞…。帰ろう…」
二人は並び、朔は左手を出す。
栞は差し出された手を握り、朔を見つめる。
朔も栞の手を握り返す。
二人は、後を見る。
ここに残ることを選んだ人たちが、二人を見守っている。
朔も、栞も軽く頭を下げ、町の人たちに感謝を伝える。
「行くよ…」
朔の言葉に、栞も頷く。
二人は、光の道を歩き出した。




