第三十二章
光が、さらに強まる。
白が、霧を押し退けるように広がっていく。
広場に残る人影が、少しずつ減っていく。
誰かが走る。
誰かが振り返らずに進む。
誰かが泣きながら、光へ消える。
朔は動けなかった。
栞も。
二人だけが――
時間の外に取り残されたように、そこに立っていた。
「……ねえ」
栞が、ぽつりと言う。
声は小さい。
けれど、はっきり震えていた。
「朔」
呼ばれて、朔は振り向く。
栞は、光ではなく――
朔を見ていた。
その目を見た瞬間。
胸が、ざわつく。
「……私」
言葉が途切れる。
唇が震える。
「……ずっと」
また止まる。
栞は、ぎゅっと拳を握る。
何かを堪えるように。
「……ずっと、待ってた」
朔の呼吸が止まる。
「迎えが来るって」
視線が、光に向く。
「信じてたの」
その声には、嘘がなかった。
ただ。
どこか遠くを見ているようだった。
「でも……」
栞の肩が、小さく震える。
「最近……分からなくなってきて」
霧が、足元を流れる。
「時間が経つほど……」
かすれた声。
「思い出せなくなるの」
朔の胸が、強く締め付けられる。
「声とか」
「匂いとか」
「一緒にいた時の空気とか」
栞は、笑おうとする。
けれど。
笑えない。
「怖いの」
初めて聞く声だった。
こんな弱さを見せたことは、なかった。
「忘れるのが怖いのか」
「それとも――」
言いかけて。
栞は、口を閉じる。
そして。
小さく首を振る。
「……分かんない」
沈黙が落ちる。
光が、揺れる。
残された時間が、確実に減っていく。
栞は、ゆっくり続ける。
「朔といるとね」
朔の指先が震える。
「……安心する」
その一言が。
静かに胸へ落ちる。
「ここに来てから」
栞は、目を伏せる。
「一番、安心できた」
その言葉は。
救いで。
同時に――
どこかで、引っかかる。
「でも……」
栞の声が、途切れ途切れになる。
「それが、何なのか……」
「分からなくて」
唇が震える。
「もし」
栞が、顔を上げる。
その目は、泣きそうだった。
「もし……朔までいなくなったら」
そこで。
言葉が崩れる。
「私――」
声にならない。
呼吸が乱れる。
「……私……」
栞は、目を閉じる。
肩が、大きく揺れる。
「……やだ」
それは。
ほとんど、子どものような声だった。
「もう……誰も、いなくなるの……やだ……」
涙が、頬を伝う。
必死に拭おうとして。
拭えなくて。
「……分かってるのに」
栞は、震えながら言う。
「帰れるなら……帰らなきゃいけないって……」
「分かってるのに……」
その言葉は。
自分に向けたものだった。
「……分かってるのに……」
声が、消える。
霧が、静かに揺れる。
朔は――
何も言えなかった。
胸の奥で。
感情が、渦巻く。
嬉しさ。
苦しさ。
迷い。
恐れ。
全部が、絡まる。
そして。
ふと。
あの男の言葉が、よぎる。
――「謝る言葉も、決めてなかった」
朔は、ゆっくり拳を握る。
逃げたくなる。
今ここで、何も言わずに
時間に任せてしまえば――
きっと、楽だ。
霧が決めてくれる。
運命が決めてくれる。
自分は、選ばなくて済む。
でも。
胸の奥に。
確かな感触がある。
あの戸を開けた時。
逃げなかった時。
あの感触と、同じものが。
そこにあった。
朔は、深く息を吸う。
栞を見る。
涙で滲んだ瞳。
迷っている顔。
それでも。
ここに立っている。
朔は、静かに言う。
「……俺さ」
声が、少し震える。
それでも、続ける。
「帰れるかもしれないって」
視線を、光へ向ける。
「思ったこと、ある」
正直な言葉だった。
「一人なら」
「もっと早く」
「もっと簡単に」
喉が詰まる。
「帰れたかもしれない」
沈黙。
霧が、流れる。
朔は、視線を栞へ戻す。
「……でも」
胸の奥で、何かが静かに定まる。
「それを選ばなかったのは」
拳が、震える。
「……後悔してない」
はっきり言う。
「怖かったし」
「迷ったし」
「正しいか分からないけど」
小さく息を吐く。
「……それでも」
栞を、まっすぐ見る。
「……君と帰れたらって、思ってる」
静かな言葉だった。
叫びでもなく。
告白でもなく。
ただ。
選んだ人間の言葉だった。
霧が、大きく波打つ。
光が、強く脈打つ。
栞は、何も言わない。
ただ。
目を見開いたまま。
朔を見ている。
唇が動く。
けれど。
声にならない。
その沈黙が。
答えの代わりのように、二人の間に落ちる。
光が、さらに強まる。
霧が、道を押し広げる。
まるで――
「もう時間がない」
そう告げるように。




