第三十章
その日、霧は珍しく薄かった。
町の外縁が、ぼんやりと輪郭を持っている。
遠くの灯りが、いつもよりはっきり見える。
「今日は、少し変だな」
診療所の前で、誰かが呟いた。
朔は包帯を運びながら、空を見上げる。
霧が流れる速度が、どこか違う。
ざわめきのようなものが、空気に混ざっている。
胸の奥が、落ち着かない。
同じ頃。
栞は、記録庫の奥にいた。
帰還者の帳面を整理する作業を頼まれていた。
古い紙の匂いが漂う。
ページをめくるたび、名前が並ぶ。
帰った者。
帰れなかった者。
線で区切られた記録が、淡々と続く。
その中に。
最近の欄を見つける。
朔の名前は、まだない。
当たり前だ。
まだ、帰っていないのだから。
栞は、指先でその余白をなぞる。
その時、背後で声がした。
「……霧が動き始めたらしいわよ」
振り返る。
記録庫の管理をしている女性だった。
「今日か、明日には開くかもしれないって」
栞の手が、止まる。
「……そう……ですか……」
それだけ返す。
女性は続ける。
「最近、帰る人増えてるからね。
水瀬くんも、候補に入るんじゃない?」
何気ない言葉だった。
けれど。
その瞬間。
胸の奥が、強く締め付けられる。
「……うん」
栞は笑う。
自然に見えるように。
「帰れたら、いいよね」
声が、少しだけ掠れる。
女性は気づかず頷き、奥へ消える。
栞は、帳面に視線を落とす。
紙が、ぼやける。
もし。
朔が帰ったら。
それは――
喜ばしいことのはずだった。
帰れる場所がある。
待っている人がいる。
それを、誰より知っている。
それなのに。
胸の奥で、別の感情が膨らむ。
置いていかれる。
その言葉が、はっきり形を持つ。
栞は、息を詰める。
「……違う……その時は、私も……」
小さく呟く。
自分の幸せを願えないほど、狭い人間じゃない。
そう思いたかった。
それでも。
手が、震える。
「……帰ってほしい」
言葉にする。
「帰れるなら……」
声が止まる。
その続きを、口に出来ない。
栞は帳面を閉じる。
視線を上げる。
霧が、窓の外で揺れていた。
その白さが、やけに遠く感じた。
夕暮れ。
朔は、広場の端に立っていた。
霧が、ゆっくり渦を巻いている。
まだ光は現れていない。
それでも――
空気が張り詰めている。
背後から、老人が近づく。
「感じるか」
朔は頷く。
「……はい」
老人は、霧を見つめたまま言う。
「今回の霧は、強い」
沈黙。
やがて、老人が続ける。
「帰れる者と、帰れぬ者がはっきり分かれる霧だ」
朔の胸が、わずかに揺れる。
「……分かるんですか」
「分からんさ」
老人は即答する。
「だがな……」
霧を指差す。
「同じ場所に立っていても、応える霧と、応えない霧がある」
静かな声だった。
朔は、広場を見渡す。
人々の行き交っている。
その中に――
自然と、栞の姿を探してしまう。
いない。
「……」
朔は、視線を落とす。
もし。
自分だけが呼ばれたら。
その考えが、胸に浮かぶ。
栞は――
帰れるのだろうか。
その可能性を、初めて真剣に考える。
胸が、重く沈む。
帰れる条件。
覚えている者がいる。
帰りたい意思がある。
問題と向き合う覚悟がある。
栞の過去を、朔はすべて知っているわけじゃない。
それでも。
迷いを抱えていることは、分かる。
もし――
その迷いが。
霧に届いたら。
朔は、拳を握る。
喉が、わずかに乾く。
「……」
言葉にならない感情が、胸を満たす。
その時。
霧が、大きく揺れた。
ざわめきが広がる。
白い光が、ゆっくり滲み始める。
広場の中央。
帰還の門が、開きかけていた。
誰かが、息を呑む。
誰かが、泣き出す。
朔は、その光を見つめる。
胸の奥で、何かが確かに動く。
その瞬間――
背後から、足音が近づいた。
振り返る。
霧の向こうに、栞の姿が見えた。
少し息を切らしながら、立っている。
二人の視線が、重なる。
光が、ゆっくりと強まる。
霧が、道を開き始める。
それはまるで。
どちらかを――
あるいは、両方を。
選ばせようとしているようだった。




