第二十九章
夜。
霧は、町の灯りを淡く滲ませていた。
栞は、古い噴水の縁に腰掛けていた。
水は流れていない。
石の表面だけが、静かに湿っている。
遠くで、足音が近づく。
振り返ると、朔が立っていた。
「……こんなとこにいたんだ」
朔は少し息を整えながら言う。
「ちょっと、休んでただけ」
栞は笑う。
朔は隣に座る。
石の冷たさが、二人の間に伝わる。
しばらく、沈黙が続く。
霧が、噴水の周りをゆっくり流れる。
「……今日、広場で」
朔が口を開く。
「見たよ。光」
栞は頷く。
「うん」
それ以上、言葉が続かない。
灯りが、揺れる。
栞は、膝の上で手を重ねる。
包帯が、わずかに見える。
朔はそれに気づくが、何も言わない。
怪我の程度が軽そうだったから――
ただ、それだけの理由で。
栞は、息を小さく吸う。
言おうとしていた。
ずっと、胸の奥に溜めていた言葉。
もし――
帰れる時が来たら。
朔は、どうするのか。
自分と一緒に帰りたいと、まだ思っているのか。
紗英とは、どういう関係なのか?
聞きたかった。
聞けば、何かが変わる気がした。
「……朔」
名前を呼ぶ。
「ん?」
朔が、素直に振り向く。
その目を見た瞬間。
栞の言葉が、喉で止まる。
優しい目だった。
変わらない、穏やかな視線。
その優しさを、壊したくなかった。
もし。
違う答えが返ってきたら――
自分は、それを受け止めきれるだろうか。
栞は、視線を落とす。
「……なんでもない」
小さく笑う。
朔は、少しだけ首を傾げる。
「そっか」
それ以上は、聞かない。
その距離感が、朔らしかった。
沈黙が落ちる。
やがて、朔が立ち上がる。
「そろそろ戻るよ。朝、早いし」
「うん」
栞も立つ。
「おやすみ」
「おやすみ」
背を向ける。
数歩進んだあと。
栞は、唇を噛む。
言えなかった言葉が、胸の奥で重く沈む。
それはまだ――
取り戻せる距離の中にあった。
けれど。
栞は、それに触れないまま歩き続けた。
それから。
霧は、変わった。
三日が過ぎても。
五日が過ぎても。
町の外縁は、厚い白に閉ざされたままだった。
広場の光も、現れない。
人々のざわめきが、少しずつ減っていく。
「……閉じたままだな」
道具屋の主人が呟く。
「こういう時もあるんですか?」
朔が尋ねる。
「ある」
主人は短く答える。
「長い時は、季節が一つ終わるくらい続く」
朔は黙る。
帰れない時間が続く。
その事実は、重くもあり――
どこか静かな日常でもあった。
町は、相変わらず動いている。
修理。
診療。
荷物の配達。
朔の仕事は、むしろ増えていた。
「朔、こっち手伝ってくれ」
「すぐ行きます」
呼ばれれば、動く。
それが、当たり前になっていた。
その日の夕方。
朔は、広場の外れにある古い記録庫を訪れていた。
頼まれた整理作業だった。
埃を払った棚には、古い帳面が並んでいる。
帰還した者の記録。
帰れなかった者の名前。
紙をめくる。
年号の感覚が曖昧な記録が、続いている。
その時。
背後から、かすれた声がした。
「……それを読むのは、まだ早いと思っていたが」
振り返る。
老人が立っていた。
この町で、最も長く霧を見てきたと言われる男だった。
確か…、斉藤さん…と呼ばれていた。
朔は、軽く頭を下げる。
「すみません。整理を頼まれて」
「構わんよ、ただの記録だ」
斉藤は棚に手を置く。
しばらく沈黙が続く。
やがて、斉藤が口を開く。
「帰る条件を、知りたいかね」
朔は、わずかに目を見開く。
「……知っている人がいるんですか」
斉藤は、ゆっくり首を振る。
「正確には、誰も知らん」
静かな声だった。
「ただ――共通していることはある」
朔は、息を詰める。
斉藤は続ける。
「帰った者は、三つを持っていた」
指を一本立てる。
「向こうで、自分を覚えている者がいる」
二本目。
「自分が、帰りたいと望む意思を持ってる」
そして、三本目。
「そして――」
斉藤は、少しだけ間を置く。
「自分の問題から、逃げなかった者だ」
記録庫の中が、静まり返る。
朔の胸の奥で、何かがわずかに揺れる。
斉藤は、帳面を閉じる。
「どれが欠けても、霧は応えん」
朔は、視線を落とす。
頭の中に、いくつもの光景が浮かぶ。
家族。
現実の町。
そして――
霧の中で笑う、あの横顔。
「……」
言葉にならない。
斉藤は、朔を見つめる。
「選ぶ覚悟は、あるか」
静かな問いだった。
朔は、すぐに答えられない。
それでも。
胸の奥で、小さな灯りが揺れているのを感じていた。
まだ、答えとは呼べない。
けれど確かに――
消えてはいなかった。
霧の外から、かすかな風が吹き込む。
帳面の端が、わずかに揺れる。
それはまるで。
決断の時が、少しずつ近づいていることを――
静かに告げているようだった。




