3.再認証【挿絵挿入済】
◇
3.再認証
◇
薄暗い廊下を抜ける。
そこには一切の光なんてものがなく、ただただ冷え切った空気だけが広がっていた。
自分を肯定する言葉を吐く。
自分を裏切らない言葉を吐く。
これだけは失ってはいけない。これだけは捨ててはいけない。
もう二度と、迷ってはいけない。
暗がりをそれでも前に進む中、何かに足を取られて転んでしまう。
前のめりに倒れこむと衝撃に加え、どこか生暖かい感触が伝わってくる。
頬と手に、ぬるりとした感触。
滑るような感覚。
それを確認することはない。そも。この状況でそれを確かめる唯一の手段であろう嗅覚は、もうずいぶん前に麻痺してしまっていた。
何度も、何度も。
躓きそうになりながら手探りに一歩を進め続け、そしてついに一つの扉の前に立つ。
ふと後ろを振り返る。
光が見える。
遠く、もう追いつくことのないほど彼方に小さな光。
まるで「こちらにこい」と言わんばかりに、それは絶え間なく光り続けている。
ああ、なんて美しい。なんて美しいのだ。
それは黄金であった。輝きを失うことのない、くすむことのない黄金であった。
どんな障害があろうとも、何に遮られようとも必ず、この魂に差し込む一筋の光であった。
だが、届かない。
───もう二度と、迷ってはいけない。
ゆっくりと向き直り、両手で扉に力を込める。
息を切らしながら全力で扉を押し開く。ずるりと滑りそうになる足元、両手をなんとか支え続ける。
気力が切れそうになる。それでも気を抜いてしまったら、自分を構成している細胞すべてが塵になって霧散してしまうような。
砂城のように崩れ落ちてしまいそうな。
そんな予感が警鐘を鳴らしている。
まだ気を失うな、まだ倒れるな。
そうして精神がほつれそうになる最後の瞬間。
自分の胸元に、薄っすらと輝くとても小さな光を見た。それは幻視だっただろうか。
蒼色の光。
それを見知ったと同時、力を失った身体はわずかに開いた扉の隙間へと落ちていった。
◇
「───おい、ゆいか。ゆいか!」
やかましい声で目が覚める。
目が覚めたという自覚はあるが、意識ははっきりとしていない。
私は目を閉じたまま、声がする方向へ思いっきり拳を振り下ろした。
「あっぶねえなおい!」
ガッシャン!
たぶん叩いたのは机だった。ガラス製か金属製の何かがぶつかり合う音がして、床に何かが転がるような音もした。
どうやら声の発生源には当たらなかったようで、やかましい声はまだ続いている。
くそ、誰かあのリボルバーに9ミリ弾薬を食わせてやってくれ。
「おい、今日は学校だろ! 遅刻するぞ! ち、こ、く!」
「うーん……」
まったくもってやかましいにもほどがある。
いかに学校があろうとも、行くかどうかを決めるのはこの私だ。
どこぞのアンティークに決められてたまるものか。毛布を頭のてっぺんまでかぶり、ベッドの中で両耳をふさいで聞かざるの体勢をとる。
「今日はいかない……」
「サボんな!」
声、でかすぎだろ。
誰かに聞かれたらどうするつもりなんだ。
私は寝ぼけまなこで、ベッドから腕だけを伸ばして脇に転がしていたポーチをあさる。
取り出したのは一つの試験管。その中には青く光り輝く光が一つ入っている。
その試験管のコルクを外し、入っていた光を床へと開放する。わざわざ重力に従う必要もないような光が床へと落下し、接地した瞬間にまばゆい光と魔法陣が展開される。
「……」
展開された魔法陣。
そこからゆらりと現れた一つの黒い影。
その黒いもやのような影は、次第にはっきりとした人型へと輪郭を固定させていく。
青みがかった黒髪に、同じ色の吊り上がった黒い瞳。おでこをだすように左右に分けられたショートヘア。そこまで高くない身長。
それは、まるで私そっくりの人型。
「ジェニモ……今日もおねがい……」
「……」
ため息を吐きながら、出現した彼女は頬をぽりぽりと掻く。
───彼女は、私のファントムじゃない。
彼女の名前はジェニモ。もともとはただのはぐれ者。
ちなみにジェニモって名前は私がつけてあげたもの。
ファントム探しの途中で、言ってしまえば「捕獲」したやつ。彼女が持っていた固有能力があまりにも便利すぎて、帰すつもりが思わず捕まえてしまった。
「いいでしょ……減るもんじゃないんだし……」
「……」
彼女はゆっくりと、小さく頷く。
もともとは自我と呼べるようなものもなかったはずなのだけど。
彼女はいつの間にか自己主張をするような人格まで持ち合わせるようになった。
はっきり言って面倒だ。
だってそうだろう?
自分とおんなじ姿をした奴が、あろうことか本物である自分に向かって自己主張をしてくるのだ。そんなのイヤに決まってる。
喋らないだけまだマシだった。
こいつの固有能力は「容姿同体」。主人の姿を真似ることができる能力である。黒い影として漂うだけのファントムだった彼女は、その能力で私の似姿を象っている。
「まーたそいつに頼むのかよ……。お前のためにならねえって」
「何がためになるかは自分で決める」
「ったく……」
いそいそと学校へ行く準備をして、カバンを持って部屋を出ていくジェニモを見送る。
私はそれからゆっくりとベッドから起き上がった。
イヤなことがなくなると呆気なく楽に体を動かせるようになる。玄関のドアが閉まる音が聞こえたあと、私は立ち上がって大きく伸びをした。
誤解を招かないために言っておくと、べつに学校に行きたくないからサボったわけではない。学校に行きたくないから、ではなく「他にやることがあるから休んだ」のだ。
机の引き出しを開けて一枚の紙きれを取り出す。
それは地図の切れ端だった。
いつの間にか、私の学校カバンの中に紛れ込んでいたもの。
赤いペンでバルキュリア機関都市内のある一点がマークされてある。
調べたところそれは「基礎魔法理学研究院・基礎研究博物館」だという。一般公開されている博物館で、私も一度訪れたことのある場所だ。
「シャワー浴びたら行こうか」
「本当に行くのかあ? なんか怪しくねえか?」
「なんかの手がかりかもしれないだろ。行かないなんて選択肢はないよ」
何故だか知らないが、どうしても行かないといけないような気がする。
寝間着を脱いで下着姿になる。引き出しから適当な替えを取り出してお風呂場へ向かう。
向かう途中でリビングがちらりと目に入った。
リビングのテーブルの上、そこにはラップにくるまれたお皿が置かれているようだった。
───あの人はもう学校へ行っている。当然といえば当然だけど。
洗面所の床にパサリと下着が落ちる。
適当なタオルを近くに置いて、私は浴室へと足を踏み入れた。
蛇口をひねればシャワーヘッドから冷たい水が流れ出す。
その冷たさがだんだんと温かさに変わっていくのを感じながら、私はふと自分の肢体を撫でてみる。
ちょっとだけくすぐったい。
時折、自分が自分ではないような感覚がする。
自分自身の認識と、実体が乖離しているような感覚。
記憶がないからだろうか。
聞けば私は、とある場所に気を失った状態で倒れていたのだという。
身元不明。
手がかりなど何もなく、それゆえに誰もが手に余してしまった。
それを受け入れてくれたのが風村先生だった。
生徒指導の風村先生。彼女は孤児院に送られるはずの、身寄りのない私を引き取ってくれた恩人。
病院に連れて行ってくれたのも彼女だった。
私にファントムがいないというのも、そこで。
あまり類のない事例だと、精密検査を受けさせられたことをかすかに憶えている。医師いわく「記憶に関係している可能性も否定できない」と。
シャワーのお湯が頭に打ち付ける。
私は、私は。
私は────────────?
……馬鹿げた思考回路だ。
いったい何を考えているというのか。
ノイズのごとき言葉の羅列。
それを気にかけるほどの精神的余裕はない。真偽は不明である。
たしかに違和感はある。その言葉に意味を持たせるだけの違和感が。だがどこにも確証となるものが存在しない。
考えるべきか、気にしないか。
幾度も浮かぶ不可思議な疑問は、交互に押し寄せる直感と理性の狭間で流水のごとく消えて行く。
そうだ、それでいい。
◇
4.再燃焼
◇
胡散臭い都市だと、いつ来てもそう思う。
まるで作り物だ。
いや作り物であることには違いない。だがそうではない。
私の直感がこの都市の魔術的、魔法的構造に対して違和感を訴え続けている。
作為的な気持ちの悪さを感じる。
蜘蛛の巣に自分から絡めとられに行くようで、不快感しか残らない。
移動する蜘蛛の軌跡。例えるならそれだろう。
広い駅のホームに降り立つ。
長い通路を通って改札を抜け、構内のガラス張りの通路から線路を含む街並みを眺める。
お行儀よく新幹線に乗ってきたはいいものの、さてこれからどうしたものか。
まずはあの……影に会いに行くべきだろうか。
◇
「あら、もう着いたのね」
とある緑あふれる公園。
少し小高い丘のある、周囲を一望できる展望デッキのある公園。
その一角にある小さな東屋にて、そんな静かな声が響いた。
見れば白い髪を腰元まで豊かに伸ばした少女が、空中にふわりと浮かんでくるくると回っている。
木々に実る赤い果実を撫でながら、どこか楽しげに黒いドレスを揺らしている。
その様子を眉を下げながら眺めている若い男が一人。
絶妙にチャラそうな風貌のその男は、赤紫色の髪をかき上げてため息を吐いた。
どうしてこんなことになってしまったのか。
自身の現況を憂わずにはいられなかったが、こうなってしまった以上は何とかするしかないのだろう。
「浮かない顔だわ。楽しくない?」
「楽しいわけないだろ。なんだってこんなとこに」
「それはだって。お呼ばれしたんだもの。行かないと」
だからどこにだよ、という疑問が喉元まで出掛かるが口には出せない。
目の前に立つ女は表情をほとんど変えず、澄まし顔できょとんとしている。
何に呼ばれたのかは知る由もない。それすら聞かされていないのだから困ったものだった。
この女のことはほとんど知らない。
どういう素性なのかも、まったく想像がつかない。
ただ一つ。
現時点で明確に理解できることは、こいつが俺のファントムを「食べた」ことだった。
その上で生殺与奪の権も握られてしまっていること。
それだけがいま現在わかっていることだ。
「でもあなた、魔法下手? 転移くらい出来てもらわないと。だいぶ離れてるみたい」
「うるさいな。正規の手段で飛んできたわけじゃないんだ。当然、魔法障壁に阻まれる」
「あの程度も抜けれないんじゃ困るわ」
まるで自分はできるかのような物言いである。
バルキュリア機関には不正に侵入する者を阻む広域魔法障壁が張り巡らされている。
それは最高階位にも匹敵するほど強力な魔法であり、魔法要塞と言っても過言ではない堅牢さを誇っている。
世界中を見渡してもこれほどの障壁はないだろう。
侵入など並みの魔法使いにできる所業ではなかった。
転移魔法を使えるだけでも評価してほしいものだが……こいつは、侵入できると言うのか。
「……一つ、聞かせてほしい」
「なあに? くだらないことなら後にしてね」
「俺にとってはくだらなくない。……お前に食われたファントム、どうなったんだ」
「んー」
空中に魔法陣を描いてる女に問いかける。
気がかりなのはそれだった。為すすべもなく目の前で食われた俺のファントム。
白狼の姿をした勇猛なそのファントムは、物心ついた時から一緒に過ごしてきた「親友」と呼べる存在だった。
それが、どうにもできないまま俺の目の前から消え去った。
この女の手によって。
まだよく意味が分かっていない。なにがどうしてこうなったのか、あまりにも理解不能で。
それゆえに悲しみすら襲ってこないありさまだった。
「なに、知りたいの?」
「当たり前だ。俺の、かけがえのないファントムだからな」
「───死んだわ。死んじゃったの」
なにかが、心の中に突き刺さる。
細く鋭い注射針のような。とても鋭くて冷たい感覚が心の奥に差し込まれた。
「……なんて、言った?」
「死んじゃったって言ったの。聞こえなかった? ずいぶん耳が悪いのね」
「……おい」
「弱肉強食。食べられたら死んじゃうのは当たり前でしょ? むしろムダな希望を抱かせないだけ、ありがたいと思ってほしいけれど」
それでも理解不能。
それゆえに理解不能。
ただひたすらに強烈な怒りの感情だけが燃え上がる。
この女が言っていることが本当だろうが嘘だろうが、それがこちらを酷く愚弄した発言であることだけは間違いようのない事実だった。
エーテルを放出する。
勢いよく空間に広がったエーテルの炎が、まだ書きかけの女の魔法陣を跡形もなく消し飛ばした。
「ぶち殺すぞ。このアマ……!!!」
警戒は怠らない。
こいつが何かヤバい存在なのは分かっている。それでも、こいつの発言をそのまま聞き流しておくわけにはいかなかった。
聞き流してやるものか。
魔法陣を書いていたその手が止まる。
おもむろに腕を下ろし、女がゆっくりとこちらへ振り返った。
「言葉には気を付けろよ? ニンゲン」
その瞬間、身体が宙を舞っていた。
とてつもない衝撃が全身を覆いつくし、目まぐるしく回る視界。
次いで後頭部と背中に伝わってくる強烈な衝撃。鼻の奥に広がるツンとした感覚と血の臭い。
肺の空気が全て押し出されたような状態になり、思わず地面に倒れこんで両手をつく。
視界が明滅を繰り返す。目眩がする。
ガヒューという聞いたことのない音が自分の喉から漏れる。
ぽたぽたと草の上に赤い血液が垂れ落ちる。
あまりにも一瞬の出来事だった。
何かされるのを知覚する前にすべてが終わっていた。
最初のときと同じ。
あまりにも、呆気ない。
神経系がおかしくなるほどの衝撃に息も絶え絶えに顔を上げれば、女が草と土を踏みしめながら近づいてくるのが見えた。
ヒールを履いたドレス姿で優雅な足取りで。
立ち上がろうとする間もなく───硬質な尖ったもので後頭部を突かれ、抑え込まれる。抗おうとするも敵わず、より強い力で地面に頭を擦り付けられた。
「いまお前を生かしてやってるのは。オレの単なる温情だと知れ。ただの物言わぬ傀儡になってないだけ感謝をしろよ……なあ?」
ガッと、わき腹をつよく蹴り飛ばされる。
まったく立ち直れていない身体が、ゴム人形のようにごろごろと地面を転がる。
血液と土が混ざった匂いが鼻腔に漂ってくる。転がった状態で腹部を抑えて呼吸を整えようとする。
───敵わない。
そう思ってしまった。そう思ってしまった時点で、もう抗う気力は湧いてこなかった。
「……わ、わかった。俺が、悪かった」
「そうか? ようやくわかってくれたのね。もう、テンション下がってしまったわ」
テン、ション?
女の表情が冷徹さを押し固めた真顔から、穏やかな笑顔に早変わりする。
不気味すぎる変化。雰囲気が一変するというレベルではない。なにか、根本的なものが変化するような切替わり方。
なんなのだ、こいつは。
これは人間なのだろうか。
それとも人外の存在なのか。
いや、人間であるはずがない。
この女が現れた瞬間のことを思い返す。
それは赤色の光だった。
学院からの帰り道に見かけた、夕暮れの空に舞う赤色の光。
幻想的な光。
俺のファントム───シロはそれをひどく警戒していたけれど、俺はそんなの気にも留めなかった。
どこか浮いた心のまま、引き寄せられるようにそれに近づいて。
気づいた時にはシロに突き飛ばされてた。
赤色の光は何倍にも巨大化して近づいてきてて、もう俺の目と鼻の先にあって……シロはそれから俺を遠ざけようとしたんだろう。
シロの後ろ半身はすでに、その光の中にあった。
嫌な音がしていた。
何かを貪るような音と、シロの悲鳴のような遠吠えがいまも耳に残っている。
急いで前足をつかんで引っ張り出そうとしたけど、できなかった。ものすごい力であっという間に引きずり込まれて行って……俺は、俺は手を放してしまった。
「ほら、早く立ち上がって。私が連れていってあげる。私たちに相応しい場所に」
女は澄ました顔付きで俺に言う。
一見すると何の感情も伺えないようなその表情は、だけどどこか楽しそうな感情を含んでいて。
そしてどこか、見知ったような感覚を抱かせる。
見覚えなんてあるわけがないのに。
女が差し出した手を掴んで、なんとか立ち上がる。
……だから。こうなってしまった以上は仕方ないのだろう。もう、どうにでもなってしまうがいいさ。
◇
5.再邂逅
◇
■
さて、私の所感を述べておこう。
君には伝えておく必要がある。そう判断した。
君はこの一件に関わらなくてよい。
いや、あえてこう言ったほうがいいだろうか?
関わるべきではない。
これは単なる遊戯に過ぎないのだ。
もちろん、遊戯である以上は面白いものだ。それは保証しよう。
すべての人間にとってこれは良いものであると。
まあ、どうするかの最終判断は君に委ねるしかないが。
いつだって内側は、君に見えているほど綺麗なものではないからね。
■
基礎魔法理学研究院。
バルキュリア機関の南方部の敷地に存在している、魔法の先進研究機関である。
基礎魔法という名前から誤解されがちだが、ここは最先端の理学研究所であり、なにも低レベルの元素魔法やら単純な構造式の魔法やらを取り扱っているわけではない。
ここで研究されているのは人類に革新をもたらすための魔法。はるか昔に遡る、今はもう記述しか残されていない「神霊級」と称される魔法である。
主要研究棟は荘厳な城のような造りをしており、いくつもの研究棟ならぬ研究塔が並び立っているロマンチックな外観をしている。
その独特な外観と、敬愛すべきの院長の名前から「レーヴァ城塞」という愛称でも親しまれていた。
その敷地内の、門を抜けた入り口近くにちょこんと建てられているのが「基礎研究博物館」。
ドーム形状のその建物はさほど大きくはない。
せいぜいコンビニエンスストアを縦横五個ほど並べたくらいのサイズだろうか。
それもそのはずで、この施設は地上に出ている部分よりも地下面積のほうが圧倒的に大きい。
もともと研究施設だったものを一部造り変える形でまるごと博物館にしたこの建物は、地下十階まで存在する縦に長い構造をしている。
ちなみに入場料は大人5000円、子供3300円。
「さすがに、そんなに変わってないか」
地下三階にある年代別研究遷移紹介コーナー。
そこで私は空中に浮かぶディスプレイとホログラム、そしてそれらに関する紹介文を眺めていた。
平日ということもあって、人の気配はあんまりない。
こう言ってはなんだが特に面白みもないような場所だし。
だいたいは小難しい研究論文や、研究に使用された聖遺物などが並んでいるだけだ。
それでも私にとっては十分面白いと思えるものだけど。
しかし、いくら一般人向けとは言えない博物館だといっても、ここまで人がいないものだろうか。
前に来たときはそれなりに人がいたような気もするけれど……あれは休日だったっけ?
「おい、ゆいか。どうなんだ」
地下四階への階段を下りていく最中、ロングスカートの下からそんな声が聞こえる。
久しぶりにロングを履いてみたけれど、やっぱり重い生地は動きにくいな。軽めの生地にするべきだった。
「どうなんだ、って?」
「何かないのかよ何か。変なものとか、そういうの。オレからじゃ見えねーんだよ」
「うーん」
スカートの下のビリーが不満たらたらな様子で文句を言っている。
そう言われても今のところ、特に変なものは見当たらない。
ごくごく普通の博物館のように思える。はぐれファントムがいるわけでもないし。
あの地図、やはり誰かのいたずらだったのだろうか。
いたずらにしては……。いたずらだというのなら、なぜこの場所なのかが分からない。
適当に選ぶにしてももっとマシな場所がありそうなものだけど。
「何もないよ。何も」
「なんだよ。じゃあ来た意味ねーじゃんか」
「……いや、ちょっと待って」
他愛ない会話をしながらコツコツとブーツの足音を鳴らして。
階段を下って四階に降り立った私は、正面に広がる空間を見据える。
薄暗い照明の室内にいくつかのディスプレイが並んでいる。
───ぐらり。
警戒心が一気に跳ね上がる。
微細な空間の揺らぎを知覚した。これを見逃すほど私は間抜けじゃない。
この先の空間が何かに制御されている。何らかの魔法的作用によって上書きされている。
階段エリアと空間を隔てる境目に手をかざす。
───反発する感覚。
間違いない。
私が私自身に定めている「領域定義」と、異なる法則の領域が展開されていることは確定的に明らか。
私はスカートを捲ってビリーを、リボルバーを取り出して正面に構えた。
「お?」
「ビリー、何かいる」
この変化は明らかに人為的なものだ。
自然界には存在し得ない領域定義だ。
私を迎え入れるためか、はたまた別の目的か。
どちらにしても、この先に行かなければそれを確認することすらできない。
だが、踏み込むのはあまりにリスキーだ。
足を止めたまま、リボルバー構えてじっと正面を見据える。そうして一分ほど経っただろうか。
「くくく……。あっはっは。やはりバレてしまいますか」
不意に、そんな笑い声が響く。
四階フロアの奥。その暗がりのほうで人影がゆらりと立ち上がった。
「意外としっかりしているんですねえ。領域定義をちゃんと定めている……それでこそ魔法使いというもの」
「その前に気付いたよ。空間の揺らぎ、あれは致命的だった」
明かりに照らされて浮かび上がる男。
季節外れの黒い外套。黒めの髪、そこに光って浮かび上がる金色の双眸。
まるで爬虫類のような眼球。
やっと顔立ちがわかる程度の距離で。彼は眉を少し上げて、それから不愉快そうに表情を歪めた。
「少しばかり邪魔が入ったのですよ。この私がそんなミスをするとお思いですか?」
「知らないよ。あんたのことなんて。誰?」
こんな男に見覚えはない。
あまりにも胡散臭い男……いやあるいは、私が忘れているだけなのか?
「これは失礼。名乗り遅れました。私はナハシェ、ナハシェ・イゴニエ」
ナハシェ。男がそう名乗ったと同時、その気配が明らかに増大する。威圧感とでも言うべきか。
───蛇。
影がその濃さを「漆黒」と表現できるほどにまで増し、形状を激しく、不自然に変化させる。
見るからに影のほうにエーテルが収束している。
「あなたをお迎えに上がりました」
問答無用。
飛びかかろうとしてきた複数の蠢く影に対し、躊躇なくリボルバーの引き金を引く。
シリンダーの中には弾薬なんて入っていない。けれど発砲音とともに、弾丸は確かに発射された。
魔銃ネシガード。
それはリボルバーではなく「弾丸を発射する機構そのもの」である。
その外観に意味はなく、大きさや用途を問わず「弾を射出する」物体に同化する性質を持つ。
精神力を消費して練り上げられた弾丸が、青い軌跡を残して影を撃ち貫く。
青く光る閃光。
瞬間。うねるように動いていた影は動きを止め、逆行するように男に対照的な人型へと戻っていく。
「おや、魔弾の類ですか? ふーむ……。一度それを見せてもらっても?」
「いやに決まってんだろ。答えろ、あの地図を仕込んだのはお前か?」
驚いたような怪訝な表情を見せる男に、私はリボルバーを構え直して問い返す。
この魔銃が持つ性質を、私は詳しく知らない。
そこそこの付き合いだけれど、ビリーがそれを丁寧に説明してくれたことは一度もなかった。
ただこれまでの状況から、推測できていることが一つだけある。
この魔銃はおそらく、「戻す」ことに関係した能力を持っている。
「地図……? ええ、ええ。それは間違いなく私です。私が仕込ませていただきました」
「何のためだ。目的を言え」
「言ったでしょう。あなたをお迎えに上がったのです。ここにいてはいけない存在なのですよ、あなたは」
「答えになってない」
リボルバーを握る手に力が入る。
迎えに上がった? 何を言っている。こいつは一体、私の何を知っている?
「そう言われましても。これ以上、私の口から言えることはありません」
「……なら、もう用はないな」
「そちらには無くても、こちらにはありましてね」
男の影がまたうねり出す。
素直に帰してくれるならばよかったが、そう甘くはないらしい。
とはいえ、逃げるだけなら地の利はこちらにある。なにせ、まだ空間には足を踏み入れていない。
ここから走って逃げるくらいなら不可能じゃない。
引き金を抑える指に力を込める。
「……もう一つ、聞きたいことがあった」
「あまり時間を取るわけにもいかないのですが……なんでしょう?」
「なぜここなんだ。ここじゃなきゃダメだったのか」
見え透いた時間稼ぎ。
それに付き合ってくれるだけ、こいつには余裕があるということなのだろうか。
この男の影を操る能力。おそらくはガルヴァンの影魔法に類するもの。
あれは影を自由自在に操れる魔法だが、明るい場所では効力が著しく低下する欠点がある。
「ふむ……。ええ、その通り。ここでなければいけませんでした。ここである必要があった」
「なぜ」
「それは───」
唐突に銃声が鳴り響き、青い閃光が走る。
男が喋り出したタイミングに合わせて引き金を引いた私は、影が硬直したのを確認して走り出す。
「鉄壁! 光よ!」
フロアの入り口を塞ぐように分厚い鉄壁が出現する。
階段を一段飛ばしで駆け上がりながらエリア全体に魔法陣を展開する。
魔法陣が刻み込まれた場所。
そのすべてから眩い光が放たれ、影の存在する場所を消し去るように照らし始める。
「おい、アイツやべーぞ! 逃げたほうがいい!」
「もう逃げてる! 遅いんだよこのタコ!」
手元のビリーが今さら慌てたように騒ぎ出す。
あの威圧感。今しがた、あの男から感じた底知れなさはかなり異常だった。
絶対に、まともに相手するべきじゃない。
とりあえず人気のあるところまで。そこまで逃げられれば、少しは対処の算段も付けられるか。
ダダダダと階段を全速力で駆け上がり、そしてちょうど「二階」の標示を過ぎたあたりで。
ドゴン、と進行方向から大きな衝撃音が鳴った。
「おいそれと逃がすわけにもいかないんですねぇ、申し訳ありません」
思わず足を止める。
止めざるを得なかった。
開いた口がふさがらないとはこのことだ。
目線の先、階段を十数段上がった先の踊り場にあの男が立っている。
見ればその横の壁に大穴が空いていた。
今もコンクリートがぱらぱらと崩れ落ちる、出来立てほやほやの大穴だった。
「それは……ナシじゃない?」
後退りしながら、思わずそんな声が出る。
「ナシ、とは?」
「こっちは物を壊さないように気をつけてんのにさ。それってアリなの? 博物館だよ?」
分かっている。
こんなのただのいちゃもんでしかないと。およそ敵相手に言うようなことではないが、それでも文句を言わずにはいられなかった。
そんなことをするのはズルいのではないか。
「ふむ。公平ではないと?」
「そりゃ公平じゃないよね。私だって壊していいなら壁ぶっ飛ばして逃げてんのよ」
これは嘘。
いくら壁を壊したところで、さっきのあの状況で逃げられるかと聞かれたらノー。
地上階ならいざ知らず……地下階で上に抜けなければいけないことを考えたら難易度は跳ね上がる。
まだ階段を使ったほうが可能性は高い。
……無理だったわけだが。
「なるほど……。そう言えば、まだ言っていませんでしたか」
「何を」と思うのも束の間、男が右手首の腕時計を見ながら呟く。
───この施設、もうすぐ崩壊するんですよ。
ドッゴオォォォンッ!!!
男が言った直後に足下、階下から謎の衝撃と爆音が鳴り響いた。
連鎖的な爆発音。
立っていられないほどの揺れに、咄嗟に壁に手をついて膝をつく。
ピシリと壁に亀裂が走るのが見えた。
収まる予感のない振動の中、粉塵を撒き散らしながら何本もの亀裂が壁を埋め尽くしていく。
「危ないですよ。だからお迎えに上がったんですがねぇ」
「お前、何を考えてる! 爆破したのか!?」
「あっはっは。……さて」
絶え間なく、建物全体が揺れ続けている。
コツ、コツと。そんな中でもやけに鮮明な、男の履く革靴の音が近付いてくる。
下に、下に逃げるしかない……?
煙と土の混ざったような匂いが漂い始めている。
爆発音が止む気配はなく、階下に向かえば生き残れる保証すらなくなるかもしれない……が。
考えている猶予はなかった。
立ち上がった私は登ってきた階段をまた、駆け足で下に向かって降り始める。
上りと違ってジャンプで飛び降りれる分、その動きは幾分か機敏である。
「おい! 冗談だろゆいか!?」
「うっさい!」
ごちゃごちゃ言うな!
こっちだって何がなんだか分からないんだから!
どこへ向かえばいいかなど思い当たりもしないけど、あいつに捕まるよりはこっちのほうが活路があり……そうな気がする!
爆発があったからといって、建物全部がイカれるなんてことはそうそうないだろう。
イマドキの建築技術はなかなかの耐久設計である。
そうしてさらなる階下へと勢いよく足を踏み出した私を、突如として浮遊感にも似た感覚が襲う。
───足元がなくなる感覚。
あると思っていた段差がなかった時のような。
いやな予感がした。
不安と驚愕に足下を見下ろせば、そこには今まさに崩れ落ちていくばかりの階段があった。
いやもはや「階段だったもの」か。
瓦礫と化す直前のものが、ばらばらに破片となりながら暗闇の大空洞へと落ちていく。
なんだこれは。
崩れ落ちるにしろ、こんな大穴が開くものか───?
そう疑問に思う間もなく、身体全体が重力に従うままに落下していく。
叫び声を上げるも助けがあるわけもなく。
瓦礫に紛れて自由落下していく視界に最後に映ったのは、階段からこちらを見下ろすあの男の姿だった。




