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エクストロバートなんて大嫌い!  作者: フェリクス


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4/5

#4 空白の時間が嫌いだ

ここまで応援してくださり、本当にありがとうございます。

それでは、第4話をお楽しみください。

玄関の鍵はかかっていなかった。

いつも通りだ。

俺は音を立てずに中へ入った。

靴を脱ぐ。

鞄は肩にかけたまま。

リビングの電気はついている。

だが、誰もいない。

テレビは消えている。

台所も静かだ。

皿の音もしない。

夕飯の匂いもしない。

まだ食事の時間じゃない。

当然だ。

俺が早く帰りすぎただけだ。

玄関のそばに、母さんの靴はなかった。

買い物か。

それとも、別の用事か。

どうでもいい。

俺はリビングへ行き、ソファの横に鞄を置いて座った。

数秒。

静かだ。

静かすぎる。

俺はリモコンを取り、テレビをつけた。

画面が明るくなる。

夕方のバラエティ番組の音が、すぐに部屋を満たした。

誰かが笑っている。

誰かが大げさな声で何かを言っている。

観客も笑っている。

俺は画面を見つめた。

面白くない。

でも、問題はない。

少なくとも、テレビの音に返事をする必要はない。

俺はソファに背中を預けた。

画面の中で、芸人がプラスチックの椅子から落ちた。

また笑い声が流れる。

俺は笑わない。

「……つまらない」

それでも、チャンネルは変えなかった。

数分が過ぎる。

玄関のドアが開いた。

鍵の音。

足音。

靴を脱ぐ音。

俺は振り向かなかった。

「……和夫?」

姉の声だった。

御影玲奈。

「珍しいね。下にいるなんて」

「……座ってるだけ」

姉はすぐにはリビングへ入ってこなかった。

玄関の方から、靴を揃える音がする。

それから、足音が近づいてきた。

肩に鞄をかけたまま、姉はリビングを通り過ぎる。

髪は少し乱れていた。

たぶん、夕方の風のせいだ。

大学一年生。

らしい。

俺は、彼女が普段何をしているのかあまり知らない。

姉も、あまり話さない。

「母さん、まだ帰ってないみたいだね」

俺は何も答えなかった。

姉は鞄をダイニングの椅子に置き、台所へ向かった。

冷蔵庫が開く。

中の白い光が、一瞬だけ見えた。

「飲む?」

「いらない」

「ん」

ボトルが取り出される。

ふたが開く。

水がグラスに注がれる。

その小さな音の方が、テレビの音よりはっきり聞こえた。

姉は台所に立ったまま水を飲んでいる。

俺は画面を見続けた。

テレビの中で、誰かがやけに大きく笑っている。

「中間テストの結果、出たんでしょ?」

リモコンの上で、俺の手が一瞬止まった。

すぐに下ろす。

「……出た」

「どうだった?」

「普通」

「普通?」

「……下から数えた方が早い」

台所から、ボトルのふたを閉める音が一瞬止まった。

「本気?」

「少なくとも、補習じゃない」

「点は?」

「足りてる」

「……そっか」

冷蔵庫が閉まる。

テレビの音が、少しだけ空っぽに聞こえた。

姉はすぐには何も言わなかった。

俺は振り向かない。

表情を見る必要はない。

「少し驚いた」

しばらくして、姉が言った。

「……そうか」

「でもまあ……そこまで意外でもないかも」

俺は画面を見つめた。

そこでは、芸能人が簡単なクイズに間違えていた。

観客が笑う。

「なんで」

「清蘭学園だから」

俺は答えない。

姉はリビングまで歩いてきた。

座りはしない。

グラスを持ったまま、ソファの後ろに少し立つだけだった。

「清蘭って、ここ数年は都内でもトップクラスの高校って言われてるよ」

俺は少しだけ振り向いた。

「……初耳だ」

姉が俺を見る。

「本気?」

「ああ」

「清蘭に入っておいて知らなかったの?」

「姉さんが、評判はいいって言った」

「それ、いいってレベルじゃない」

「違いは?」

姉は小さく息を吐いた。

怒っているわけじゃない。

どちらかと言えば、置き場所を間違えた物を見つけたが、直すのも面倒だと思っている顔だった。

「私も昔、清蘭を受けたことがある」

俺は黙った。

「落ちたけど」

「……そうか」

「反応、薄いね」

「どう反応すればいい」

「いや。そういうところは、いつも通りだね」

姉はダイニングテーブルへ行き、グラスを置く。

それから、着ていた薄手のジャケットを脱いだ。

「その時も倍率、かなり高かった。今はもっと高いらしいけど」

「そうか」

「だから、そこで順位が低いなら……まあ、おかしくはないと思う」

俺は答えなかった。

テレビはついたままだ。

画面からの作り物みたいな笑い声が、会話の隙間を埋めていく。

姉はジャケットを椅子の背にかけ、もう一度鞄を手に取った。

「それに、お前は中学、大阪の全寮制だったでしょ。東京の学校に詳しくなくても仕方ないよ」

「……」

「三年間、ほとんど帰ってこなかったし。休みの時も、よく寮に残ってたしね」

俺は画面を見る。

テレビはいつの間にか、CMに変わっていた。

インスタント食品。

炭酸飲料。

明るすぎる声。

「その方が楽だった」

俺は言った。

姉はすぐには返さなかった。

「誰にとって?」

「全部」

その答えは、考える前に出た。

いや

たぶん、何度も使いすぎた答えだった。

姉は数秒黙った。

俺は振り向かない。

意味がない。

彼女は何も知らない。

そして、それは彼女のせいじゃない。

「そっか」

姉は小さく言った。

足音が階段の方へ向かう。

会話は終わったと思った。

けれど、上がる前に、姉は立ち止まった。

「和夫」

「何だ」

「点が安全圏だからって、立場まで安全とは限らないよ」

俺は答えなかった。

目はテレビの画面に向けたまま。

そこでは、誰かがどうでもいい商品を持って笑っていた。

「まあ……好きにすればいいけど」

姉は返事を待たなかった。

足音が階段を上がっていく。

一段。

二段。

三段。

やがて、その音は二階で止まった。

少しして、彼女の部屋のドアが閉まる。

カチッ。

リビングは、また一人になった。

テレビはまだついている。

番組がまた変わる。

司会者の顔。

観客の笑い声。

派手な色の大きなテロップ。

全部、勝手に進んでいく。

俺は画面を見つめた。

面白くない。

興味もない。

でも、少なくとも

答える必要はない。

俺はソファに背中を預けた。

外では、空が少しずつ暗くなっていく。

家は、まだ静かだった。

そして今は、

それで十分だった。


一週間が過ぎた。

何かが大きく変わったわけじゃない。

朝。

教室。

授業。

休み時間。

また授業。

繰り返し。

中間テストの点数も、もうあまり話題にならなくなった。

補習は何人かに始まっている。

文句を言うやつもいる。

笑っているやつもいる。

もう忘れているやつもいる。

早い。

人間は、自分の問題にさえすぐ飽きる。

最後のチャイムが鳴った。

鋭い音。

何人かの生徒がすぐに立ち上がる。

椅子が動く。

鞄が閉じられる。

話し声が教室を満たし始める。

金曜日。

クラス委員の用事はない。

バイトもない。

つまり

また、空白の時間だ。

面倒だ。

俺は本を鞄に入れる。

立ち上がる。

椅子を元の位置に戻す。

前の方では、レンが数人の生徒と話していた。

笑い声が聞こえる。

補習への文句も聞こえる。

俺は混ざらない。

理由がない。

教室を出る。

廊下はもう混んでいた。

帰ろうとする生徒が、同じ方向へ流れていく。

教室の前で友達を待っているやつもいる。

階段を下りながら、必要以上に大きな声で話すやつもいる。

俺はその間を歩いた。

早くもない。

遅くもない。

止まらずに下駄箱へ行ければ、それでいい。

教室から一番近い階段は、廊下の右側にある。

いつもは、そこを下りる。

遠回りする必要はない。

別の道を探す必要もない。

ルートを変える必要もない。

そういうことは、考えなくていい。

階段を下りる。

一階。

生徒の声がさらに多くなる。

下駄箱へ向かう辺りは、帰ろうとする生徒で埋まっていた。

俺はそのまま歩く。

その時

「やっほー」

声が、階段の下から聞こえた。

前を見る。

吉岡若菜が、下駄箱へ向かう通路の脇に立っていた。

肩に鞄。

長い黒髪は、背中にまっすぐ落ちている。

明らかに誰かを待っていた人間にしては、表情があまりにも気楽だった。

悪い。

「待ってたよ」

俺は答えなかった。

足はそのまま動かす。

見ない。

止まらない。

聞こえない。

少なくとも、そうするはずだった。

俺は彼女の横を通り過ぎた。

いや、通り過ぎようとした。

「ちょっと」

少しだけ強い声。

下駄箱の近くにいた生徒が、何人かこちらを見る。

面倒だ。

「聞こえてないふりしないでよ」

若菜が前へ出て、俺の進路を塞いだ。

俺は止まった。

止まりたかったわけじゃない。

このまま進めば、もっと目立つからだ。

俺は彼女を見る。

「……何だ」

冷たく。

短く。

それで十分だ。

若菜は小さく笑った。

「今日、バイト休みでしょ?」

「……知らない」

「この前、金曜は休みだって言ってた」

「言ってない」

「金曜はバイト休みって言ってたよ」

「毎週じゃない」

「でも今日は?」

俺は黙った。

間違えた。

ここで黙るのは、いい答えじゃない。

若菜は少し首を傾げる。

「つまり、休み」

「勝手に決めるな」

「でも、当たってるよね?」

俺は数秒、彼女を見た。

疲れる。

始まったばかりなのに、もう疲れる。

「……何の用だ」

「一緒に勉強しよ」

「断る」

早い。

間を置く必要はない。

考える必要もない。

若菜は驚いていないようだった。

その答えも、最初から計算に入っていたらしい。

「約束したでしょ」

「……いつ」

「公園で」

「約束なんてしてない」

「好きにしろって言った」

「それは約束じゃない」

「でも、断ってもない」

「あれは疲れてただけだ」

「じゃあ、今日は疲れないで」

「もう遅い」

若菜は瞬きをした。

それから、小さく笑う。

俺は笑わない。

何人かの生徒が俺たちの横を通り過ぎる。

ちらりと見るやつもいる。

気にしないやつもいる。

ここは、こういう会話をするには人が多すぎる。

いや、そもそも――

こういう会話自体、必要ない。

俺は横へ一歩動こうとした。

若菜も同じように動く。

通路がまた塞がれる。

「……邪魔だ」

「うん」

「どけ」

「勉強してから」

「しない」

「少しだけ」

「しない」

「十五分」

「しない」

「十分」

「増えても減っても関係ない」

「つまり、聞いてはくれてるんだ」

「残念ながらな」

若菜が笑う。

俺は小さく息を止めた。

間違いだ。

返しすぎた。

彼女みたいな人間はそうだ。

短い返事が一つあれば、会話は勝手に伸びる。

小さな隙間が一つあれば、そこから入ってくる。

そして俺は、

あの公園以来、

余計なことを話しすぎている。

面倒だ。

俺は下駄箱の方へ視線を向けた。

「用が済んだなら、帰る」

「まだ済んでない」

「自分で済ませろ」

「無理」

「ほかを当たれ」

「当たった」

「よかったな」

「でも、みんなうるさい」

「お前には合ってる」

「ひどい」

「事実だ」

若菜は少し黙った。

それから、半歩だけ近づいてくる。

大した距離じゃない。

でも、意識するには十分だった。

彼女の手が上がる。

何かを指さすのかと思った。

違った。

若菜は俺の制服の袖口をつまんだ。

一瞬だけ。

強くはない。

すぐに離す。

小さな動きだった。

それでも、十分だった。

俺は引かれた袖を見る。

それから、彼女を見る。

「……何だ」

若菜はすぐには答えなかった。

笑みが少し消えている。

あるいは、下駄箱の入口から差す光のせいで、そう見えただけかもしれない。

「お願い」

声は、さっきより小さかった。

「せめて、一緒にいてくれるだけでいいから」

少しだけ、静かになった。

周りの音は変わらない。

生徒の足音。

下駄箱を開ける音。

閉じる音。

笑い声。

名前を呼ぶ声。

全部、そのまま流れている。

それでも、その言葉だけが少し長く残った。

俺は若菜を見る。

表情は、完全に悲しそうなわけじゃない。

演技かもしれない。

本気かもしれない。

分かりにくい。

彼女みたいなやつは、本当に面倒だ。

ふざけているなら、邪魔だ。

真面目なら、もっと邪魔だ。

俺は同情していない。

助けたいとも思わない。

ただ――

少しだけ、気になった。

どうして彼女は、ただ一緒に勉強するだけで、そんな声を使うのか。

分からない。

それとも、俺が考えすぎているだけか。

「……いるだけか?」

若菜が少し顔を上げた。

「うん」

「勉強じゃなくて」

「勉強してくれてもいいけど」

「しない」

「じゃあ、いてくれるだけでいい」

俺は黙った。

ここでまた断れば、この会話は続く。

人の多い場所で。

通り過ぎる生徒たちの中で。

若菜が、まだ立ち去る気のなさそうな顔をしたまま。

受け入れても面倒だ。

でも、少なくとも

その方が早く終わる。

「……好きにしろ」

若菜が瞬きをする。

「つまり、いいってこと?」

「勝手にまとめるな」

「でも、いいんだよね?」

「場所は俺が決める」

「え?」

「それが嫌なら、なしだ」

若菜はしばらく俺を見た。

それから、すぐに頷く。

「いいよ」

早すぎる。

俺が何と言っても、それが拒絶でない限り受け入れるつもりだったように見えた。

それもまた、気に入らない。

俺は彼女を通り過ぎ、下駄箱へ向かった。

今度は若菜も邪魔をしなかった。

ただ、後ろからついてくる。

「どこ行くの?」

俺は下駄箱を開ける。

靴を取る。

「図書室」

「図書室?」

少し驚いた声。

「本気で勉強する気?」

「ない」

「じゃあ、なんで図書室?」

俺は靴を履き替える。

下駄箱を閉める。

カチッ。

「あそこは静かだ」

「ああ」

若菜は小さく笑った。

「たしかに。和夫くんに合ってるね」

俺は答えない。

理由はそれじゃない。

図書室にはルールがある。

騒いではいけない。

大きな声で笑ってはいけない。

好き勝手に喋ってはいけない。

つまり

彼女みたいなやつの口を、少しは閉じられる場所だ。

少なくとも、そうであるはずだった。

俺は歩き出した。

若菜が横に並ぶ。

近すぎるわけじゃない。

それでも、視界には入る距離だった。

「ありがとう、和夫くん」

「礼を言うな」

「なんで?」

「まだ何もしてない」

「でも、一緒にいてくれるんでしょ?」

「お前が道を塞いだからだ」

「ひどい理由」

「十分な理由だ」

若菜は小さく笑った。

俺は少しだけ歩く速度を上げた。

金曜日。

バイトはない。

用事もない。

学校に残る理由もない。

そのはずだった。

それなのに、なぜか

俺は図書室へ向かって歩いている。

隣には、やたらと喋る人間がいる。

「……面倒だ」

「何か言った?」

「何でもない」

「絶対言った」

「風だ」

「風って喋るの?」

「お前が黙れば、聞こえるかもしれない」

若菜は少し黙った。

本当に少しだけ。

そして

「図書室に入ったら、私、黙らなきゃだよね?」

「そうだな」

「じゃあ、着くまでは喋っていい?」

俺は足を止めた。

少しだけ、彼女を見る。

若菜は真剣そうな顔をしている。

明らかに、真剣ではない顔で。

俺は小さく息を吐いた。

選択を間違えた。

図書室でも、たぶん足りない。

「……好きにしろ」

そして、いつも通り

その答えはすぐに間違いになった。


図書室は、隣の棟にあった。

下駄箱から、遠すぎるわけではない。

近いわけでもない。

ただ座るだけのために行くには、そこそこ面倒な距離。

それでも、騒がしい場所よりはましだった。

俺は先に歩く。

若菜は隣、少しだけ後ろをついてきた。

しばらくの間、彼女は本当に黙っていた。

さっき俺が言ったことを覚えているのか。

それとも、図書室へ向かう廊下が静かだからか。

理由はどうでもいい。

悪くない。

図書室の扉が、ゆっくり開く。

中の冷えた空気が、すぐに肌に触れた。

紙の匂い。

高い本棚。

長い机。

木の椅子。

大きな窓から、夕方の光が差し込んでいる。

清蘭学園の図書室は、思っていたより広かった。

人は多くない。

だが、空でもない。

何人かの生徒が、離れた席に座っている。

本を読んでいるやつ。

何かを書いているやつ。

開いた本の前で、ただ俯いているやつ。

ページをめくる音が、小さく聞こえた。

静かだ。

いい場所だ。

居心地がいいからじゃない。

ここでは、人はうるさくしないよう強制される。

それがいい。

俺は窓際の席へ向かった。

そこからは、校庭が見える。

外には、まだ何人かの生徒がいた。

軽く走っているやつ。

集団で歩いているやつ。

声は中まで届かない。

ただ、見えるだけ。

その方がいい。

「ここ?」

若菜が小さく聞いた。

俺は答えずに座った。

それで十分だ。

若菜は俺の向かいに座り、椅子の横に鞄を置いた。

それから、すぐに本と筆記用具を取り出し始める。

動きが早い。

準備がよすぎる。

俺は数秒、彼女を見た。

ノート。

問題集。

ペン。

消しゴム。

シャープペン。

全部、整って出てくる。

まるで、本当に勉強しに来たみたいだった。

俺の邪魔をするためではなく。

「……真面目だな」

若菜が顔を上げる。

「え?」

「何でもない」

俺は立ち上がった。

「え、どこ行くの?」

「棚」

「勉強しないの?」

「俺は、付き合うだけだと言った」

「それもそうだね」

若菜はすぐに問題集へ戻った。

追ってこない。

それ以上、聞いてこない。

妙だった。

俺は本棚の間を歩いた。

本の背表紙が、きれいに並んでいる。

参考書。

百科事典。

古典文学。

エッセイ集。

特に探しているものはない。

ただ、見ているだけ。

時間を潰すために。

その時、一冊の背表紙で視線が止まった。

太宰治。

『人間失格』。

俺は、その本を棚から抜き取った。

表紙は簡素だった。

少し古びている。

だが、手入れはされている。

俺はそれを数秒見つめた。

軽い題名ではない。

でも、悪くない。

俺は席へ戻った。

若菜はもう、問題集の前で俯いていた。

数学。

たぶん。

数字と記号が、ページを埋めている。

字は綺麗だった。

線も整っている。

余計な書き込みも少ない。

俺は彼女の正面ではなく、隣に座った。

距離は十分ある。

近すぎない。

遠すぎもしない。

若菜は振り向かなかった。

シャープペンが、ゆっくり動く。

止まる。

また動く。

集中している。

本当に。

俺は手に持った小説を開いた。

数分が過ぎる。

音はない。

あるのは、鉛筆の擦れる音。

ページをめくる音。

低く響く空調の音。

俺は少しだけ横目で見た。

若菜はまだ書いている。

喋らない。

聞かない。

邪魔をしない。

妙だ。

少し、彼女らしくない。

でも

悪くない。

勉強しようと言ったのは彼女だ。

座ったのも彼女だ。

勝手に集中しているのも彼女だ。

なら、俺の存在はそれほど必要ない。

つまり

楽だ。

俺は視線を小説のページへ落とした。

最初の一文を、ゆっくり読む。

そのまま、読み進めた。

一ページ。

次のページ。

時間が、思ったより自然に過ぎていく。

悪くない。

少なくとも、考えていたほど悪くはない。

若菜のシャープペンが止まった。

彼女は問題集を静かに閉じ、少しだけ肩を伸ばす。

「ふう……」

小さな声。

図書室の中では、ぎりぎり許されるくらいの音だった。

俺は振り向かない。

「終わりか」

「うん。今日はここまで」

「早いな」

「そう思う?」

「知らない」

若菜は俺の手元の本を見た。

「本当に勉強してないんだね」

「言っただろ」

「何読んでるの?」

「小説」

「それは見れば分かる」

「なら聞くな」

「タイトル」

俺は表紙が見えるように、少しだけ本を閉じた。

若菜がそれを読む。

「人間失格?」

「ああ」

「重いね」

「かもな」

「そういうの好きなの?」

「知らない」

「知らないの?」

「今読んでる」

「ああ」

若菜は、それほど興味がなさそうだった。

よかった。

その方がいい。

彼女はシャープペンを軽く片づけた。

だが、まだ鞄にはしまわない。

それから、俺を見た。

「本当に平気なの?」

俺はページに視線を落としたまま答える。

「何が」

「点数」

「足りてる」

「足りてる?」

「補習じゃない」

「その基準ってさ……」

若菜は途中で止まった。

図書室だということを思い出したのかもしれない。

声が少し低くなる。

「上げようとは思わないの?」

「上げる」

若菜が瞬きをした。

「必要ないって言うかと思った」

「補習は時間の無駄だ」

「理由、それ?」

「十分だ」

「恥ずかしいからじゃなくて?」

俺は彼女を見る。

「恥ずかしい?」

「うん」

若菜は机に肘をつき、頬を手で支えた。

「普通は、点数とか順位を見たら、少しはやる気になるでしょ。あんなふうに貼り出されたら、なおさら」

「なぜ」

「なぜって……」

若菜は少し困ったような顔をした。

「普通に恥ずかしいでしょ」

「恥ずかしくない」

「学校中に点数を知られても?」

「どうでもいい」

「本当にそういう人なんだね……」

若菜は小さく息を吐いた。

それから続ける。

「この学校、クラス順位だけじゃなくて、学年順位も出るよ」

俺の手が、ページをめくる途中で止まった。

「……何?」

若菜が俺を見る。

「知らないの?」

「初めて聞いた」

「本気?」

「ああ」

彼女は少しだけ口元を押さえた。

完全に驚いたわけではない。

どちらかと言えば、笑いを堪えているようだった。

「よく知らずにいられるね……」

「誰も教えなかった」

「普通はみんな知ってるよ」

「俺はみんなじゃない」

「それはそうだね」

若菜は小さく笑った。

俺は笑わない。

「学年順位は中央掲示板に貼り出されるの。成績が出てから、一週間」

「何のために」

「さあ。伝統じゃない? 全員に自分の位置を分からせるため、とか」

「趣味が悪い」

「少しね」

「いや。かなり悪い」

若菜は窓の方を見た。

校庭は、少しずつ人が減っている。

夕方の光も、低くなっていた。

「下の方にいたら、すぐ有名になるだろうね」

「悪い成績でか?」

「うん」

「どうでもいい」

「気にする人は気にするよ」

「気にするやつは面倒だ」

「それ、ずっと言ってるね」

「本当だからな」

若菜は否定しなかった。

彼女はスマホで時間を確認する。

「その掲示、今日までだよ。貼り出されるのは七日間だけ」

「そうか」

「今なら、まだあると思う」

「そうか」

「気にならないの?」

「ならない」

答えは早かった。

早すぎた。

若菜はしばらく俺を見た。

俺は小説のページを見る。

見るべきものなんてない。

「気になるなら、見に行けばいいのに」

「行かない」

「どうして?」

「遠い」

「中央掲示板、下駄箱の近くだよ」

「下駄箱は出口に近い」

「それ、理由になるの?」

「なる」

若菜は小さく笑った。

今度は本当に、かなり小さく。

「本当に和夫くんらしいね」

「知ったような口をきくな」

「まだ知らないよ」

「それでいい」

「でも、少しずつ見えてきたかも」

俺は本を閉じた。

静かに。

怒ったわけじゃない。

ただ、その言葉が気に入らなかっただけだ。

若菜も気づいたのかもしれない。

すぐに自分の本を片づけ始めた。

「帰ろっか」

「……」

早い。

誘う。

勉強する。

終わる。

帰る。

この人間は、本当に勝手に動く。

俺は立ち上がった。

『人間失格』を棚に戻す。

まだ読み終わっていない。

問題ない。

本は逃げない。

たぶん。

席に戻ると、若菜はもう全部を鞄にしまっていた。

綺麗に。

思っていたより、ずっと。

俺たちは、ほとんど話さずに図書室を出た。

廊下はもう、かなり静かになっていた。

遠くから、部活の音がかすかに聞こえる。

二人分の足音だけが、妙にはっきり響いた。

誰も喋らない。

数秒だけなら、それはほとんど快適だった。

そして、当然のように

「和夫くん」

俺は振り向かない。

「何だ」

「付き合ってくれて、ありがとう」

「俺は何もしてない」

「それがよかったの」

「……」

どういう意味だ。

若菜は小さく笑った。

「おかげで集中できた」

「一人でも集中できるだろ」

「できない時もある」

「静かな場所を探せ」

「さっき探したよ」

「なら、俺は必要ない」

「そうかもね」

曖昧な答え。

好きじゃない。

彼女は廊下の分かれ道で立ち止まった。

「私、こっちから帰るね」

「そうか」

「ありがとう。この恩はいつか返すね」

「いらない」

「返す」

「やめろ」

「どうして?」

「お前の返し方は面倒そうだ」

「まだ分からないでしょ」

「分かる」

若菜は小さく笑った。

それから、手を振る。

「またね」

俺は答えない。

彼女は先に、横の出口へ向かって歩いていった。

足取りは軽い。

肩に鞄。

歩くたびに、黒い髪が少し揺れる。

俺はしばらく、それを見ていた。

興味があったからじゃない。

ただ、彼女が今、去っていったからだ。

それだけだ。

廊下はまた静かになる。

俺は下駄箱へ向かって歩いた。

中央掲示板は、別の方向にある。

遠すぎるわけじゃない。

だが、近くもない。

廊下の突き当たりで、俺は少しだけ足を止めた。

右。

中央掲示板。

左。

下駄箱。

俺は右の方を見る。

学年順位。

一番上の名前。

一番下の名前。

全部、貼り出されている。

趣味の悪い伝統だ。

誰が上にいようと、俺には関係ない。

誰が下にいようと、俺には関係ない。

俺は気にしていない。

気にする必要もない。

それに

下駄箱の方が近い。

俺は左へ歩いた。

靴を履き替える。

出口を通る。

夕方の空気が、顔に触れた。

今日は悪くなかった。

良くもなかった。

ただ

少しだけ、時間が使われた。

本来なら面倒だったはずの空白が、少し減った。

それだけだ。

俺は家へ向かって歩く。

背後で、図書室のある棟が、夕方の影に沈んでいく。

そして、俺が見なかったどこかで

たぶん、俺の名前はまだ掲示板に貼られている。

どうでもいい。

本当に、どうでもいい。

「……面倒だ」

俺は歩く速度を上げた。

長く立ち止まりすぎると

どうでもいいはずのものが、別の何かに見え始めるからだ。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。




御影の物語は、まだ続きます。




もし続きが気になりましたら、


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