#3 面倒ごとの始まり
七十点。
悪くないはずのその数字が、なぜか頭から離れない。
そしてその日、御影和夫の静かな日常に、少しだけ面倒なものが入り込む。
【登場人物・読み方】
御影和夫
主人公。1年C組のクラス委員。
吉岡若菜
和夫に何かと話しかけてくる女子生徒。
虹木レン
和夫のクラスメイト。気楽な性格。
清水菜々子
1年C組の担任教師。生徒からは清水先生と呼ばれている。
藤原宇作
成績優秀な男子生徒。
そこに、その名前があった。
御影和夫。
点数:七十点。
順位:三十人中、二十四位。
俺は、それを数秒見つめた。
読み間違いじゃない。
見間違いでもない。
隠れている別の数字なんて、どこにもない。
「……は?」
声が、勝手に漏れた。
小さく。
ほとんど、誰にも届かないくらいに。
周りの声が、少しずつ混ざっていく。
「俺、セーフ」
「補習かよ、最悪……」
「一位って誰?」
「また藤原だろ?」
「そりゃそうだろ。あいつだけ別次元だし」
俺は視線を外した。
そうだ。
何もおかしくない。
七十点。
最低点は超えている。
補習じゃない。
十分。
そのはずだった。
俺は掲示板の前から離れ、自分の席へ戻った。
座る。
鞄はまだ机の下。
教科書は閉じたまま。
ペンの位置も、さっきと変わらない。
何も変わっていない。
ただ、その数字だけが頭の中に残っていた。
七十。
「……面倒くさい」
「気にすんなよ、クラス委員」
前の方から声がした。
顔を上げると、虹木レンが俺の机の近くに立っていた。
相変わらず、気楽そうな顔をしている。
「……何が」
「点数」
レンは軽く答えた。
「気にすんなって」
「……気にしてない」
「へえ」
レンはゆっくり頷いた。
「なら、よかった」
俺は答えない。
レンは前の机に片手をついた。
「七十点なら普通にセーフだろ。俺なんか、その点数欲しいくらいだし」
「……基準が低いな」
「うん。だから俺の人生は軽い」
馬鹿みたいな答えだった。
でも、完全に間違っているわけでもない。
こういうやつは、単純だ。
少しうるさくて、軽くて、深く踏み込んでこない。
今のところは、危険じゃない。
レンは掲示板の方をちらりと見た。
「一位はやっぱり藤原宇作だな」
俺は黙った。
「俺、中学一緒だったんだよ、あいつ」とレンが続ける。
「昔から頭よかった」
「……そうか」
「一位取っても、誰も驚かないタイプ」
「……」
誰も驚かない。
その言葉だけが、少しだけ頭の中に残った。
昔は――
いや。
必要ない。
俺は視線を机に落とした。
「点数、人間じゃねえよな」とレンが言う。
「……人間は人間だろ」
「ん?」
「何でもない」
レンは少し俺を見てから、肩をすくめた。
「まあ、とにかくあいつは頭いい。俺はその逆」
「説明しなくても分かる」
「ひどくね?」
「事実だ」
レンは小さく笑った。
そのあとも、彼はしばらく何かを話していた。
補習のこと。
自分が怒られるかもしれないこと。
数学の教師が厳しすぎるということ。
俺は、必要な分だけ返した。
「……ああ」
「……たぶん」
「……知らない」
「……勝手にしろ」
それで十分だった。
レンも、特に気にしていないようだった。
こういうやつは、ちゃんと返事がなくても勝手に話せる。
数分後、レンは前の席へ戻った。
会話は終わった。
いや――
俺が聞くのをやめただけだ。
次の授業は、いつも通り進んだ。
教師が入ってくる。
チョークが動く。
教科書が開かれる。
ペンの音が聞こえる。
俺は、自分の席に座っていた。
それでも、あの数字はまだ残っている。
七十。
悪くない。
良くもない。
問題にするほど低くはない。
記憶に残るほど高くもない。
消えるには、ちょうどいい位置。
そのはずだった。
最後の授業が終わる。
「今日はここまで」
清水先生が教科書を閉じた。
「基準に届かなかった人は、補習の日程を確認しておいてください。届いた人も、油断しないように」
何人かの生徒が、気の抜けた返事をする。
俺は教科書を片づけ、鞄に入れた。
金曜日。
クラスの用事はない。
クラス委員としての仕事もない。
今日はバイトも休み。
時計は、四時を少し過ぎていた。
帰るには早すぎる。
でも、学校に残るよりはましだ。
俺は立ち上がった。
教室は、少しずつ空になっていく。
まだ点数の話をしているやつもいる。
もう週末の予定を話しているやつもいる。
予定。
まだ起きてもいないことに、やけに真面目な響きがある言葉だ。
俺は教室を出た。
廊下は、まだそれなりに騒がしい。
長い窓から、夕方の光が差し込んでいる。
空気の中で、小さな埃が浮かんでいた。
目的もなく歩く。
階段。
一階。
ロッカー。
昇降口。
全部、いつも通り。
校門の前には、何人かの生徒が集まっていた。
友達を待っているやつ。
スマホを見ているやつ。
必要以上に大きな声で笑っているやつ。
俺は、その横を通り過ぎる。
誰も呼び止めない。
それでいい。
学校の外の道は、昼間より静かだった。
太陽は、もう傾き始めている。
斜めになった光が、建物の壁やアスファルトに張りついていた。
時計を見る。
十六時二十三分。
いつもなら、この時間に迷うことはない。
学校。
バイト。
帰宅。
考えなくてもいい順番。
でも、今日は違う。
バイトは休み。
課題もない。
急ぐ理由もない。
つまり――
空白の時間。
面倒なものだ。
小さな交差点で足を止めた。
左。
まっすぐ。
右。
右には、小さな公園がある。
俺は、そちらへ歩いた。
落ち着きたかったわけじゃない。
夕日を眺めたかったわけでもない。
ただ、今すぐ帰るには早すぎる気がした。
それだけだ。
公園には、ほとんど人がいなかった。
木がいくつか。
短い遊歩道。
ブランコが二つ。
滑り台が一つ。
低い柵の近くに、古いベンチ。
どうでもいい場所。
ちょうどいい。
俺は、一番端のベンチに座った。
鞄を隣に置く。
背中を預ける。
視線を前へ向ける。
夕日が、建物の隙間から落ちていた。
淡い橙色。
褒めるほど綺麗じゃない。
文句を言うほど暗くもない。
十分だ。
少しだけ、目を閉じる。
七十点。
また、その数字が浮かんだ。
悪くない。
良くもない。
補習じゃない。
問題はない。
俺は勉強していない。
何かを目指しているわけでもない。
高い点数なんて必要ない。
上に立たなければ、落ちることもない。
単純な話だ。
「……まあいいか」
声が、小さく漏れた。
どうでもいい。
俺は気にしていない。
数秒が過ぎる。
それから、数分。
それでも、数字は消えない。
苛立つ。
俺は目を開けた。
葉が、風に揺れている。
大通りの車の音が、遠くから聞こえた。
静かだ。
これで十分なはずだった。
「……和夫くん?」
違った。
少しだけ顔を向ける。
吉岡若菜が、ベンチから数歩離れたところに立っていた。
肩に鞄をかけている。
長い黒髪が、夕方の風でゆっくり揺れていた。
少し驚いたような顔をしている。
俺は、彼女をしばらく見た。
「……吉岡」
「何してるの?」
「……座ってる」
「うん、見れば分かる」
「なら聞くな」
「それもそうだね」
軽い返事。
軽すぎる。
俺は視線を前に戻した。
若菜は、すぐには立ち去らなかった。
悪い兆候だ。
「ここで見るの、珍しいね」
「……ああ」
「バイト帰り?」
「違う」
「帰るところ?」
「まだ」
「そっか」
少しの沈黙。
俺は聞き返さない。
必要ない。
若菜は、俺の隣のベンチを見た。
「座ってもいい?」
「公共のベンチだ」
「じゃあ、いいってこと?」
「好きにしろ」
彼女はベンチの反対側に座った。
近すぎるわけじゃない。
それでも、さっきまで空いていた空間は、もう空いていない。
面倒だ。
「部活、急に休みになったんだ」と若菜が言った。
「……そうか」
「部屋が使えなくて」
「……」
「だから帰っていいって」
「帰ればいいだろ」
「まだ早いし」
「なら帰らなければいい」
「だから座ってる」
「……」
こういう会話は疲れる。
中身がない。
目的もない。
それでも続いていく。
彼女みたいなやつは、そういうものだ。
一つの言葉が、次の言葉になる。
一つの返事が、別の質問になる。
終わりが見えない。
「今日、結果発表だったよね?」
若菜が言った。
俺は黙る。
若菜は、少しだけこちらを向いた。
「どうだった?」
「……普通」
「普通?」
「ああ」
「点数は?」
「言う必要はない」
「言う必要がないってことは、悪かったの?」
俺は彼女を横目で見た。
若菜は前を向いていた。
からかっているようには見えない。
だからこそ、面倒だった。
「……七十」
「へえ」
反応は普通だった。
笑わない。
驚かない。
哀れむこともしない。
「ぎりぎりセーフだね」
「ああ」
「補習は?」
「ない」
「なら、いいじゃん」
「基準が低いな」
「補習じゃないなら、いいでしょ」
「気楽だな」
「気楽って、たまには大事だよ」
俺は答えない。
若菜は少しだけ空を見上げた。
「でも、嬉しそうには見えない」
「……普通だ」
「また『普通』?」
俺は黙った。
彼女が、こちらへ顔を向ける。
「よく言うよね、それ」
「そうでもない」
「さっきも言ってた」
「たまたまだ」
「よくある、たまたま?」
「……」
「あ、黙った」
「答えることがない」
「あると思うけど」
「俺はないと思う」
「じゃあ、引き分け」
「勝手にルールを作るな」
若菜は小さく笑った。
俺は笑わない。
怒っているわけじゃない。
ただ、疲れる。
人との関わりは、いつもこうだ。
一つ扉を閉めると、窓を探してくる。
窓を閉めると、今度は壁を叩いてくる。
そして放っておくと――
そこを家だと思い込む。
俺は鞄を手に取った。
もう十分だ。
立ち上がろうとした、その前に。
若菜がまた口を開いた。
「和夫くんのバイトって、いつも何時から?」
手が止まる。
「なんでだ」
「気になっただけ」
「気にする必要はない」
「何時?」
俺は小さく息を吐いた。
「……六時」
若菜はスマホで時間を確認した。
「今、まだ四時半だよ」
「知ってる」
「まだ結構あるね」
「知ってる」
「それなのに、いつもすぐ行くの?」
「バイトがあるからだ」
「でも、始まるの六時でしょ?」
「早く行ってはいけない決まりはない」
「真面目だね」
「違う」
「じゃあ?」
俺は、少しだけ黙った。
「その方が楽だ」
若菜がこちらを向く。
「楽?」
間違えた。
言いすぎた。
「……忘れろ」
「ふうん」
彼女は追ってこない。
でも、離しもしない。
それが、余計に厄介だった。
数秒の沈黙。
それから――
「じゃあさ、一緒に勉強しない?」
俺は彼女を見た。
「……何?」
「一緒に勉強」
「なんで」
「部活、たまに休みになるし」
「それはお前の都合だ」
「和夫くんも、たまにバイトないでしょ」
「それは俺の都合だ」
「点数、七十点だったし」
「補習じゃない」
「でも、気にしてるみたいだし」
「気にしてない」
「気にしてないなら、一緒に勉強しても問題ないよね」
ひどい理屈だ。
でも、十分に面倒だった。
俺は数秒、彼女を見る。
若菜は冗談を言っているようには見えない。
かといって、真剣すぎるわけでもない。
まるで、それが普通のことみたいに。
何度か話しただけの相手を、勉強に誘う。
やはり、彼女は変だ。
「嫌だ」
「どうして?」
「必要ない」
「私が必要」
「点数悪かったのか」
「普通」
俺は黙った。
若菜は薄く笑う。
「普通」
「……」
「私も使えるね」
「面倒くさい」
「少しね」
俺は立ち上がった。
鞄を肩にかける。
若菜が、下から俺を見上げた。
「帰るの?」
「ああ」
「じゃあ、部活がまた休みになったら、一緒に勉強しよ」
「しない」
「どうして?」
「必要ない」
「まだ試してないよ」
「試す必要もない」
若菜は、少し黙った。
そして、静かに聞く。
「怖いの?」
俺は足を止めた。
夕方の風が、ゆっくり流れる。
頭上で葉が擦れ合う。
その質問は軽かった。
でも、落ちた場所は軽くない。
「……違う」
「じゃあ?」
「興味がない」
「勉強に?」
「お前とすることに」
若菜が瞬きをした。
他の人間なら、怒ったかもしれない。
でも彼女は、少しだけ俺を見てから、静かに頷いた。
「そっか」
よし。
これで終わるはずだ。
俺は歩き出した。
一歩。
二歩。
「和夫くん」
足を止める。
振り向かない。
「何だ」
「一回だけなら?」
「……」
「それで合わなかったら、終わり」
「必要ない」
「一回だけ」
「強制か?」
「誘ってるだけ」
「同じだ」
「違うよ」
「どこが」
「強制なら、断れないでしょ」
俺は少しだけ顔を向けた。
若菜は、まだベンチに座っている。
夕方の光が、彼女の横顔に落ちていた。
ふざけているようには見えない。
でも、重くもない。
それが、一番やりづらい。
「……面倒くさい」
「つまり?」
俺は黙った。
もう一度断れば、この会話はまだ続く。
受け入れても面倒だ。
でも、少なくとも――
今は、その方が早く終わる。
「……好きにしろ」
若菜が瞬きをする。
「え?」
「たまたま時間が合えばな」
「じゃあ、いいってこと?」
「勝手にまとめるな」
「でも、いいんだよね?」
「……」
「黙ってるってことは、いいってこと?」
「黙ってるってことは、疲れてるってことだ」
「じゃあ、いいってことだ」
勝手すぎる。
本当に、勝手だ。
俺は顔を背けた。
「本当に勉強すると思うなよ」
「とりあえず来てくれればいいよ」
「行くとも言ってない」
「でも、行かないとも言ってない」
「吉岡」
「なに?」
「黙れ」
若菜は二本の指で口を押さえた。
遅い。
俺はまた歩き出した。
今度は、彼女は呼び止めなかった。
よかった。
少なくとも、今は。
そう思った数歩後――
「和夫くん」
俺は、ゆっくり足を止めた。
「……今度は何だ」
「七十点って、悪くないよ」
「……」
「でも、和夫くんがここで一人で座ってたなら、それってただの数字じゃないんじゃない?」
静寂。
風の音しか聞こえなかった。
俺は少しだけ振り向いた。
若菜は、まだベンチに座っている。
夕方の光が、彼女の顔の横に落ちていた。
笑っていない。
満足そうでもない。
ただ、見ている。
当たり前のことを言っただけみたいに。
でも、それは当たり前じゃなかった。
「……分かったようなこと言うな」
「うん」
「二度と言うな」
「できたらね」
間違った返事だ。
俺は顔を背ける。
彼女みたいなやつは――
邪魔だ。
近いからじゃない。
まだ。
知っているからでもない。
まだ。
ただ、放っておくべき場所にまで質問してくるからだ。
俺は再び歩き出した。
公園を出る。
太陽は、もう沈みかけている。
家までの道は、いつもと同じに見えた。
俺は手をポケットに入れる。
七十点。
二十四位。
藤原宇作。
軽く話しかけてくるレン。
質問の多すぎる若菜。
小さなことばかり。
重要じゃない。
考える必要もない。
俺は歩く速度を上げた。
「……面倒くさい」
今日は、まだ終わっていない。
そして、なぜか――
何かが始まってしまった気がした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
御影の物語は、まだ続きます。
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