#2 いつも通り——のはずだった
日々は、いつも通りに過ぎていく——
静かに、
繰り返し、
大きな変化もなく。
少なくとも——
本来は、そうであるはずだった。
一ヶ月。
思っていたよりも、時間は早く過ぎた。
それとも――
何も、変わっていないのか。
朝。
教室に入る。
座る。
帰る。
繰り返し。
毎日。
周りの連中は、少しずつ――
馴染んできているように見える。
グループはできていて、
会話にも流れがある。
笑い声も、もうぎこちなくない。
まるで最初から、
知り合いだったみたいに。
……早すぎる。
俺は、その中に入らない。
入る必要もない。
――
昼休みも、いつも通り過ぎていく。
ほとんどの生徒は食堂へ向かう。
残るやつは、弁当を広げる。
俺は動かない。
腹は減っていない。
いや――
正確には、食べる気にならないだけだ。
朝で十分だ。
食堂に行く理由もない。
騒がしさ。
列。
無駄な会話。
……面倒だ。
このままでいい。
座る。
黙る。
時間が過ぎるのを待つ。
気づけば――
もう一日が終わりに近づいている。
授業の終わりまで、あと数分。
黒板をなぞるチョークの音が、静かに響く。
何人かの生徒は、すでに集中を切らしている。
無理もない。
もうすぐ、終わりだ。
俺は椅子に背を預ける。
視線は前へ。
だが、特に何かを見ているわけではない。
「おい、クラス委員。」
前の方から声がした。
俺はわずかに視線を上げる。
一人が、後ろを振り向いた。
男子。
少し乱れた髪。
気楽そうな表情。
「昨日のデータ用紙、もう集めるんだよな?」
「……ああ。」
彼は立ち上がり、体ごとこちらに向き直る。
「前のやつらの分、まとめて俺が持ってくよ。行ったり来たりすんの面倒だろ。」
俺は一瞬だけ彼を見る。
「……好きにしろ。」
彼は小さく笑った。
「俺、虹木レン。まだ覚えてなかったら、な。」
少し間を置いてから、付け加える。
「あ、そうだ。昨日のやつ、ありがとな。宿題。」
俺はすぐには答えなかった。
「……どういたしまして。」
「見た感じ、けっこうできるよな。あの問題、意外と難しかったし。」
「……普通だ。」
短く答える。
それで終わりだ。
彼はそれ以上何も言わず、すぐに前へ向き直った。
隣のやつとの会話を、何事もなかったように再開する。
早い。
……馴染むのが、うまい。
数分後――
「はい、今日はここまで。」
清水先生の声は落ち着いている。
「まだデータ用紙を提出していない人は、今すぐ出してください。クラス委員は、それを職員室まで持っていくように。」
何人かの生徒が、すぐに動き出す。
紙が手から手へと渡る。
速い。
余計な指示はいらない。
俺はゆっくり立ち上がった。
机の上には、すでに紙の束ができている。
ほとんどは集まっていた。
……十分だ。
虹木が近づいてきて、数枚の紙を上に置く。
「これで全部、っぽい。」
「……ああ。」
「頑張れよ。」
軽く言って、すぐに自分のグループへ戻っていく。
小さな笑い声が聞こえた。
まるで、俺の用事は自分たちとは関係ないみたいに。
……実際、関係ない。
――
放課後の廊下は、さっきよりも賑やかだった。
足音。
会話。
帰りの予定。
その中を、俺は歩く。
鞄は肩に。
紙は手に。
足取りは一定。
「……和夫くん。」
足が止まる。
振り返る。
壁の横に、吉岡和奏が立っていた。
さっきから見ていたかのように。
「……何だ。」
淡々と答える。
彼女は少し近づいた。
「提出しに行くの?」
「……ああ。」
彼女は手に持っていたファイルを軽く上げる。
「私も。」
数秒の沈黙。
気まずくもない。
かといって、心地よくもない。
ただ――
そこにあるだけ。
「一緒に行く?」
軽い調子。
俺は答えない。
先に歩き出す。
数秒後、彼女が隣に並ぶ。
それで十分、ということらしい。
俺たちの歩幅は揃っている。
近すぎず、
かといって遠くもない。
廊下の人通りは、少しずつ減ってきていた。
「疲れた?」
不意に、彼女が聞く。
「……普通。」
「もう一ヶ月だよ?」
「……そうだな。」
彼女は小さく笑った。
何が可笑しいのかは、よく分からない。
そのまま、数歩進む。
――
職員室が見えてきた。
俺は扉を開ける。
中に入る。
紙を渡す。
終わり。
早い。
――
再び廊下へ出る。
さっきよりも、ずっと静かだ。
何人かは、もう帰っている。
「ねえ、そういえばさ……」
彼女が、こちらの肩の鞄に視線を向ける。
「もう鞄持ってるってことは、そのまま帰るの?」
「……ああ。」
「どこか寄ったりしないの?」
「……しない。」
少しの沈黙。
それから――
「早いね。」
俺は答えない。
「部活も入ってないんだよね?」
「……ああ。」
「ふーん……」
小さく頷く。
「……バイト?」
足が、わずかに鈍る。
……余計な詮索だ。
それなのに、なぜか当たっている。
「……そうだ。」
短く答える。
それで十分だ。
彼女は少しだけ目を見開いた。
「え、ほんとに? バイトしてるの?」
俺は答えない。
「放課後に働くのって、疲れない?」
「……普通。」
彼女は小さく笑う。
「“普通”って、よく言うよね。」
俺は何も言わない。
彼女は一歩下がった。
「じゃあ、気をつけてね。」
少し間を置いてから、付け加える。
「私はこれから部活。ダンス部。」
俺は軽く頷く。
……聞いてもいないのに。
彼女は小さく手を振る。
それから、彼女は背を向けた。
足取りは軽い。
違う方向へ。
俺は少しだけ、その背中を見ていた。
「……さすが、エクストロ。」
小さく呟く。
視線を外す。
階段。
外へ。
空の色が、ゆっくりと変わっていく。
夕方から、夜へ。
時刻はもうすぐ五時。
その店は、目立たない。
灯りだけが、やけに明るい。
白い光。
静かだ。
俺は中に入る。
「早いな。まだ一時間くらいあるぞ。」
奥から、店主の声。
俺は軽く頷いた。
「……特に用事もない。」
一瞬だけ、間を置く。
「……早い方がいい。」
店主はすぐには返さない。
「……まあ、いいけど。」
小さくそう言って、いくつかの小包を差し出した。
住所はすでに書かれている。
整っている。
「……今日は少ないな。」
俺はもう一度頷く。
それでいい。
外に出る。
荷物を自転車のかごに入れる。
ゆっくりとペダルを踏む。
通りは、少しずつ人が増えている。
それでも——
誰も見ていない。
誰も気にしない。
目的だけ。
住所だけ。
移動だけ。
……分かりやすい。
道の端で、一度止まる。
住所の紙を見る。
それから、前へ。
「……単純だな。」
小さく呟く。
返事はない。
そのまま、また走り出した。
家に着いた頃には、もう空は暗くなっていた。
リビングの灯りがついている。
鍵はかかっていない。
いつも通り。
音を立てずに中へ入る。
靴を脱ぐ。
鞄は肩にかけたまま。
「おかえり。」
リビングから声。
少しだけ視線を向ける。
母はテレビの前に座っていた。
隣には、畳まれていない洗濯物の山。
手だけが、ゆっくりと動いている。
一枚ずつ、折りたたむ。
視線は画面のまま。
「……ただいま。」
短く返す。
それで十分だ。
それ以上は続かない。
質問もない。
俺はそのままリビングを通り過ぎる。
テレビの音は流れ続けている。
内容は、頭に入らない。
――
キッチンは明るい。
いくつかの皿が、すでに整えられている。
テーブルの上には、まだ料理が残っていた。
用意されていたらしい。
皿を取る。
適当に盛る。
多くもなく、
少なすぎもしない。
ただ——十分。
小さな食器の音だけが響く。
座らない。
そのまま皿を持つ。
再びリビングを通る。
母は同じ姿勢のまま。
こちらを見ることもない。
その必要もない。
――
階段。
足音は静かに。
二階は、さらに静かだ。
部屋の扉が並んでいる。
その一つを通り過ぎるとき——
わずかに開いていた。
中から、薄い光が漏れている。
姉だ。
机に向かって座っている。
背中だけが見えた。
少しだけ俯いた頭。
開かれた本。
動くペン先。
真剣。
俺は立ち止まらない。
ノックもしない。
声もかけない。
そのまま、通り過ぎる。
階段。
足音は静か。
二階は、さらに静かだ。
部屋の扉が並んでいる。
その一つを通り過ぎるとき——
少しだけ開いていた。
中から、かすかな光が漏れている。
姉。
机に向かっている。
ドアの隙間から、背中だけが見えた。
少し俯いた頭。
開いた本。
動くペン先。
真剣。
俺は立ち止まらない。
ノックもしない。
声もかけない。
そのまま、歩き続ける。
——
自分の部屋の前。
ドアを開ける。
入る。
閉める。
カチッ。
静寂。
皿を机に置く。
鞄は椅子に放る。
制服はまだ着たまま。
問題ない。
椅子に座る。
小さく息を吐く。
……落ち着く。
机の横の本棚。
一冊、手に取る。
『ハムレット』。
少しだけ擦れた表紙。
まだ読み終えていない。
折り目のついたページを開く。
読む。
ゆっくり。
急がずに。
音はない。
誰もいない。
あるのは、ページと——
自分の思考だけ。
数分が過ぎる。
ふと、手が止まる。
机の上の皿に視線を向ける。
まだ温かい。
食べ始める。
スプーンが静かに動く。
余計なものはない。
会話もない。
あるのは、小さな食器の音だけ。
……十分だ。
急がずに噛む。
時折、視線が本へ戻る。
一文ずつ。
入って、
抜ける。
何も残さないまま。
部屋の外では、まだテレビの音がしているかもしれない。
あるいは、足音。
それ以外の何か。
俺はあまり気にしない。
必要ない。
ここでは——
もっと単純だ。
もっと静かで、
もっと楽だ。
ゆっくりと本を閉じる。
「……十分だ。」
小さく呟く。
誰に向けたわけでもない。
ただ——
区切りだ。
今日は、これで終わり。
夕方の光が、窓から差し込む。
薄い。
強くはない。
いつも通り、席に座る。
後ろ。
窓際。
視線は外へ。
空は、特に変わりない。
雲がゆっくり流れている。
目を引くものはない。
前では、チョークの音がかすかに響く。
説明は続いている。
一文ずつ。
入って——
消える。
ちゃんと聞いているわけではない。
必要もない。
こういう内容は——
大して変わらない。
何人かはまだノートを取っている。
何人かは、ただ座っているだけ。
教室は静かだ。
少し静かすぎるくらいに。
チャイムが鳴る。
鋭く。
授業の終わりを告げる音。
「……今日はここまで。」
清水先生の声が、空気を切る。
チョークが置かれる。
いくつかの顔がすぐに上がる。
「来週から中間テストが始まるから、覚えておいてください。」
一瞬、静まる。
それから——
「え、マジで?」
「早すぎない?」
「全然勉強してないんだけど……」
あちこちから声が上がる。
最初は小さく、すぐに広がる。
ため息。
ぎこちない笑い。
そのまま話し始める者もいる。
さっきまでの静けさが、崩れる。
「……各自、しっかり準備しておくように。」
清水先生の声は変わらない。
短く、それだけ。
足音が遠ざかる。
ドアが閉まる。
カチッ。
そして——
完全に、緩む。
会話がはっきりと聞こえる。
話題は同じ。
中間テスト。
点数。
勉強。
予定。
俺はそのまま動かない。
視線をもう一度、窓へ向ける。
空は変わらない。
何も。
「……中間、か。」
小さく呟く。
ほとんど聞こえない。
時間は気づかないうちに過ぎていく。
日々は、同じように流れる。
特に何も起きない。
乱れもない。
考えることもない。
……悪くない。
少なくとも——
このままでいい。
夜になっても、大きな変化はない。
部屋の灯りがついている。
白い光。
静かだ。
机に座る。
制服はもう着替えている。
開いたままの本が目の前にある。
ページは文字で埋まっている。
公式。
メモ。
解説。
一通り揃っている。
十分だ。
数秒、見つめる。
見慣れた内容。
大半は覚えている。
……はずだ。
指先がページに触れる。
めくる。
次のページ。
また次。
単調な動き。
特に意味はない。
静寂。
紙の擦れる音だけが、かすかに響く。
手が止まる。
一つの例題に視線が向く。
答えは——簡単だ。
時間はかからない。
ペンを取る。
書く。
数行。
解き方。
終わり。
結果を見る。
正しい。
……そのはずだ。
手が止まる。
ペンはまだ指の間。
数秒、経つ。
それから——
本を閉じる。
ゆっくりと。
「……必要ない。」
小さく呟く。
続ける理由はない。
これ以上やっても、変わらない。
成績は——
重要じゃない。
正確には、
重要にする必要がない。
椅子に背を預ける。
視線は天井へ。
空白。
静けさ。
圧力はない。
欲求もない。
ただ——
止まっている。
数分が過ぎる。
気づかないまま。
立ち上がる。
デスクライトを消す。
部屋は少し暗くなる。
外からの光だけが、わずかに差し込む。
ベッドに横になる。
上を見上げる。
明日はテスト。
……のはずだ。
何も変わらない。
ゆっくりと目を閉じる。
残る思考はない。
準備することもない。
ただ——
いつも通りに、終わる。
朝は、少しだけ違って感じた。
あるいは——
周りの人間のせいかもしれない。
校門は、いつもより人が多い。
足早に歩く者。
端で立ち止まり、ノートを開く者。
会話の声も、どこか真剣だ。
普段とは違う。
俺はその中を通り抜ける。
立ち止まらない。
見る必要もない。
「……和夫くん。」
横から声。
わずかに視線を向ける。
若菜。
長い黒髪が、風に揺れる。
整っている。
この慌ただしい朝には——
少し整いすぎている。
彼女は笑う。
「おはよう。どう?昨日、勉強した?」
「……普通。」
「また“普通”? 」
小さく笑う。
「あとで“やってない”とか言わないでよ?」
すぐには答えない。
足は止めない。
「……十分。」
短い返答。
それで終わりだ。
彼女は小さく息をついて——
「じゃあ、頑張ってね。」
声は軽いまま。
返事を待たずに、小走りで前へ出る。
足取りは軽い。
速い。
やることが山ほどあるかのように。
後ろで髪が揺れる。
「……さすが、エクストロさん。」
小さく呟く。
吐いた息は、ほとんど笑いに近い。
数秒だけ、その背中を見る。
それから視線を外す。
……これが漫画なら、
あいつはもうヒロインだろう。
明るくて、
誰とでもすぐに距離を詰めて——
そして、
少しだけ、鬱陶しい。
教室の空気が、少し違う。
静かだ。
完全な無音ではない——
それでも、張りつめている。
何人かはまだ本を開いている。
何人かは、机を見つめたまま動かない。
俺はいつもの席に座る。
鞄は横に置く。
準備することはない。
数分が過ぎる。
ドアが開く。
清水先生が入ってくる。
「では、始めます。」
問題用紙が配られる。
一枚ずつ。
順番に。
やがて、俺のところにも回ってくる。
「始めてください。」
教室は、沈む。
音が消える。
ペンの音。
紙の擦れる音。
そして、抑えられた呼吸。
俺は書き始める。
いつも通り。
急がない。
それ以上を求める理由もない。
時間は流れる。
ゆっくりと。
そして——終わる。
「時間です。提出してください。」
椅子が動く。
紙が手から手へ渡る。
安堵の声が、少しずつ戻ってくる。
俺は立ち上がる。
解答用紙を提出する。
終わり。
……十分だ。
試験は三日間続いた。
来て、
解いて、
帰る。
それを繰り返す。
記憶に残るようなことは、何もない。
そして気づけば——
結果発表の日が来ていた。
チャイムが鳴る。
鋭く。
授業の始まりを告げる音。
まだ話している者もいる。
すでに席についている者もいる。
だが、空気は——
いつも通りではない。
何かが違う。
ドアが開く。
清水先生が入ってくる。
足取りは、いつも通り落ち着いている。
手には——
数枚の紙。
厚くはない。
だが、十分だ。
教室の声が、ゆっくりと静まっていく。
誰も「静かにしろ」とは言われていない。
それでも、全員が分かっている。
今日は——
その日だ。
清水先生は紙を机に置く。
一瞬だけ、教室を見渡す。
「……中間テストの結果が出ました。」
誰も口を開かない。
ただ、何人かが小さく唾を飲み込む。
「前にも言いましたが——」
「総合平均の最低点は七十点です。」
「それ未満は、補習になります。」
声は変わらない。
脅すような調子ではない。
だが、十分に伝わる。
何人かが小さく息を吐く。
静かに。
「それ以上は……まあ、いいでしょう。」
一瞬だけ間を置く。
「届かなかった人は……改善してください。」
強くはない。
だが、軽くもない。
いつも通りだ。
「少なくとも——」
「全員、ちゃんと受けました。」
付け足すように。
短く。
深くはないが——
それでも分かる。
まだ、見ている。
紙が再び手に取られる。
そのまま、黒板へ向かう。
今は静まり返った教室で、
その足音だけがやけに響く。
紙が貼られる。
整然と。
「各自で確認してください。」
振り返らない。
そのまま机へ戻る。
座る。
鞄から何かを取り出す。
まるで、もう終わったことのように。
数秒——
誰も動かない。
そして——
椅子が動く音。
一つ。
二つ。
やがて、いくつも重なる。
前に、人が集まり始める。
小さな声。
名前。
点数。
反応。
俺は動かない。
そのまま、待つ。
前のざわめきが混ざり始めてから、
ようやく立ち上がる。
ゆっくりと、歩く。
近づく。
名前。
点数。
……見つけた。
御影和夫。
点数:七十点。
順位:三十人中、二十四位。
足が止まる。
数秒。
動かない。
「……は?」
小さく漏れる。
ほとんど、聞こえないほどに。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
御影の物語は、まだ続きます。
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