3,000対200
「橋を落とす」
四人の目が止まった。
「ユリウス様……帝国の渡河を断つのですか」
オットーが声を上擦らせた。答えず、地図に目を落とした。
机の上の地図。蝋が剥げた表面に、昨夜セラフィーナと引いた線が残っている。領都、橋、鉱山、山の隘路。その向こうに帝国の補給路。
「こちらは200。正面からぶつかれば壊滅する。だから三つの軸で戦う」
指が地図を滑った。
「一つ目。地形を使う。3,000がこの山間を通るには隊列を割るしかない。割れた部隊を、山の中で叩く」
指が隘路の入り口で止まり、南に迂回する細い線を辿った。
「二つ目。偽の情報を流す。王国の援軍が三日後に到着すると、帝国の耳に入れる」
オットーが身を乗り出し、眼鏡がずれた。
「三つ目」
地図の上で、橋に爪を立てた。
「俺たちが先に橋を渡る。そして、鉱山側で橋を落とす」
ヘルムートの眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
「若様」
「聞け」
「……退路を断てば、兵は逃げ場を失う」
「橋を落とすだけなら帝国は来られない。だが鉱山を捨てることになる」
俺は地図から目を上げた。
「セラフィーナの情報が正しければ、帝国が欲しいのは鉱山だ。辺境伯の首じゃない。鉱山の前に死ぬ気の200が立てば、全滅させるまで戦わせるコストが利益を超える。天秤が傾く」
ヘルムートが黙った。腕を組んだまま、片方しかない目が俺を射抜いている。
「若様が、死地に入る」
「どちらも死地だ。だが正面は確実に全滅する」
この男が一番に見せた色は、俺の命だった。昨日、四つの中で最もはっきり浮かんでいた。正面で壊滅する未来と、退路を断って凌ぐ未来。どちらが俺を生かすか。
ヘルムートは答えなかった。しばらく地図を睨み、腕を解いた。古傷だらけの拳が、一度、膝を叩いた。それから開いた手が、隘路の上に触れた。
「正面は俺が受け持つ」
「頼む」
壁際に目を向けた。
「リーゼロッテ」
赤毛が動いた。
「民兵を連れて山に入れ。南側の斜面から帝国の補給路を叩く」
「……任せろ」
声が硬い。だが目は逸れない。戦の話になった途端、目が定まっている。
セラフィーナが扇子の骨を辿った。
「エルヴィン家に書状を出しますわ。グレンツェンが落ちれば、次の最前線はエルヴィン領。援軍を出す理由には十分です」
「実際に来るか」
「来なくても構いませんわ。帝国に『援軍が来る可能性がある』と思わせるだけで、撤退の理由を一つ増やせます」
扇子が閉じた。翡翠の瞳が地図の上で俺と合った。こいつと地図を囲むと、頭は冴えるが妙に落ち着かない。
「偽情報と合わせれば、効きますわね」
オットーが羊皮紙に数字を走らせていた。
「帝国軍3,000の一日の糧食消費量は、荷車で八台分になります。山間の補給路は狭い。二週間分の備蓄を焼ければ、前に出る理由が消えます」
「それを焼くのがリーゼロッテの仕事だ」
赤毛が頷いた。無言で。
◇
三日後。国境の谷間。
苔むした石の橋の上に立っていた。グレンツェン領の東端と王国中央を結ぶ唯一の道。二百年前に先代の先代が架けた橋だと、ヘルムートが言っていた。
「壊せ」
民兵が橋脚の根元に楔を打ち込んだ。足元が揺れた。石が軋み、裂け、橋の中央がへし折れた。
轟音。
崩れた石が谷底に落ちていく。砂埃が舞い上がり、音が谷壁に跳ね返った。
風が埃を払った。橋があった場所に、何もない。谷を挟んだ向こう側が急に遠くなった。
「若様」
ヘルムートが横に立っていた。残った片目が、谷底を見ている。
「帰り道がなくなったぞ」
「ああ。補給の道も」
口角が上がっている。
この山のどこかに、帝国の斥候がいる。昼間にわざわざ落とした。見逃すはずがない。
報告は飛ぶ。辺境伯の軍は退路を断った、と。
3,000を率いる指揮官が、それをどう読むか。
風が、谷底から吹き上がった。




