美人の嫁が俺を見る目
蝋燭が三本目に替わっていた。
深夜の執務室。机の上に広げた地図の端が、蝋の滴で波打っている。セラフィーナが向かいに座り、扇子の骨を人差し指で辿りながら、国境線を見つめていた。
「帝国軍の補給拠点は二つ。カイザーベルクとヴォルフスハイム。どちらもエルヴィン家の情報網が確認済みです」
「二つか。この山間を3,000が通るには、隊列を三つに割るしかない。三つに割れば——」
「各個撃破の隙が生まれますわね」
指が地図を這った。山道の等高線を辿り、隘路の幅を爪で測る。こいつの頭の中には、俺がまだ口にしていない戦略の骨格が既に見えている。
翡翠の瞳が地図から上がった。俺の目に合わせ、一拍。また地図に戻る。
「帝国が3,000を動かす理由は何だ。辺境伯領一つに、割が合わない」
「二つ、考えられますわ」
セラフィーナが扇子を閉じた。閉じた指先が、蝋燭の光で白く浮かんだ。
机を挟んだ距離が近い。拒否権条項が頭の隅をよぎった。
「一つは威嚇。国境に兵を置くだけで、グレンツェン家が王都に泣きつく。王都の対応次第で、帝国は手を汚さずに外交カードを得ます」
「もう一つは」
「本気で獲りに来ている。鉱山ですわ」
鉄鉱石の産出が始まったのは、つい先月だ。情報が漏れるのが早すぎる。
「エルヴィン家の文官が、鉱山の品質報告を書いています。その写しが王都に届いていれば、帝国の耳にも入りますわ」
「……お前のところから漏れてるのか」
「わたくしのところから、ではありませんわ。エルヴィン家の情報は、買い手がつく限り流れます」
微笑みが変わらない。悪びれない。こいつは自分の実家の情報管理の穴を、地図の上の地形と同じ精度で把握している。
「使えるな」
「ありがとう存じます」
◇
日付が変わった頃、話が噛み合い始めた。
セラフィーナが帝国側の貴族の派閥図を口頭で描き、俺がその利害関係を地図の上に重ねた。帝国軍の指揮官が誰であれ、補給を断てば三日で動けなくなる。山間の隘路が天然の城壁になる。
「糧食を考えれば、帝国が全軍を一点に集中させるのは二週間が限度だ。逆に言えば、二週間凌げば——」
「帝国側から退く理由が生まれますわ」
扇子の骨を辿る指が止まった。セラフィーナの翡翠の瞳が蝋燭の光を拾い、地図の上で俺の目と交差した。
「貴方、エルヴィン家がなぜこの婚姻を選んだかお分かりで?」
「ああ。帝国との緩衝地帯が欲しかった。お前の実家は、このグレンツェン領を盾にしている」
セラフィーナの微笑みが、一段深くなった。
「エルヴィン家のためなら何でもやるんだな。この婚姻も、今夜の情報提供も」
蝋燭の炎が揺れた。微笑みの奥に、凪いだ水面のような静けさが張り付いた。
「——そう見えますか」
声の温度が変わった。口元は笑っている。目の奥が笑っていない。
地雷を踏んだ。義務感で動いている相手に「実家のためだろう」と言う。それだけのことだ。
なのに目の前のこの女は、怒っている。微笑みが深いほど怒っている。それだけは読める。
「……すまん。余計なことを言った」
「いいえ。的確なご指摘ですわ」
的確なご指摘、と言う声が一番怒っている。
順序は見えても、背景を間違えれば、この通りだ。あの盗賊の件と同じことを、今度はこいつ相手にやらかしている。
黙って地図に目を落とした。蝋燭が短くなる音だけが響いた。
◇
沈黙のまま、地図の上で指を動かし続けた。
セラフィーナも口を開かなかった。だが扇子を閉じたまま、地図を覗き込み、俺の指が止まった地点に視線を合わせてきた。
言葉がなくても、戦略の線は繋がった。
「……隘路の西側に伏兵を置けば、帝国軍の先遣隊を足止めできる。その間に本隊の糧食を叩く」
「補給路は山の南を迂回していますわ。三日分の食糧を焼けば、帝国は前に出る理由を失います」
声はまた、地図の言葉に戻っていた。地図に向かうセラフィーナの目は、さっきまでとは別の光を帯びていた。
肩の力が抜けた。地雷の後だというのに、こいつと地図を囲んでいると頭が冴える。
「お前、本当に有能だな」
言ってから気づいた。思考が口に出ていた。
有能で、美人で、深夜に二人きりで地図を囲んでくれる嫁。俺の人生、ようやく上向いてきたんじゃねえか。
セラフィーナの手が一瞬止まった。微笑みが——深くない。薄い。けれど初めて、作り物でない笑みが口元にあった。
「お嫁にしがいがありますでしょう?」
声が柔らかかった。一瞬だけ。次の瞬間には、いつもの微笑みに戻っている。
蝋の匂いが濃くなっていた。見間違いかもしれない。それでも、あの笑みは確かにあった。
◇
翌朝。
執務室に四人を集めた。ヘルムート、オットー、セラフィーナ。そしてリーゼロッテ。
ヘルムートが腕を組んだ。オットーが羊皮紙を握る手に力を込めている。リーゼロッテは壁際に立ち、俺と目を合わせなかった。セラフィーナは扇子を開き、いつもの微笑みで杯を傾けた。
「帝国軍3,000。こちらは200足らず。数で勝てない」
全員の顔を見渡した。
利得の目が起動した。
四つの色が、同時に浮かんだ。
ヘルムートの1位——若様の生存。2位は先代への誓い。3位はない。この男はこの二つだけで生きている。
オットーの1位——領地の存続。2位はユリウスへの忠誠。3位、数字が合わないことへの恐怖。声に張りがあっても、この恐怖はまだ消えていない。
リーゼロッテが一番読みにくい。1位は忠誠。だが2位が霞んでいる。前と同じだ。何かが重なって消えている。
壁際のリーゼロッテの頬に、火傷痕が見えた。俺は目を逸らした。
セラフィーナの1位——家名の安泰。2位は自分の価値の証明。暗い影がまだある。3位、婚姻を有利に進める。
四人分の優先順位が、地図の上に重なるように見えた。
「数で勝てない。だから——ゲームのルールを変える」
ヘルムートの眉間に皺が刻まれた。オットーの眼鏡の奥が光った。リーゼロッテが初めてこちらを見た。セラフィーナの扇子が止まった。
口角が上がっている。




