帝国軍3,000、こちら200
昨夜の署名の墨が乾く前に、セラフィーナは動いていた。
朝の執務室に、紅茶の湯気が立ちのぼっていた。
机の上には帳簿が三冊。セラフィーナが二人分の杯を運ばせたらしく、白磁の茶器が羊皮紙の隙間に収まっている。セラフィーナは杯を口元に運びながら、視線は数字の列を追っていた。
「上納金の支払い時期を三ヶ月後ろにずらせませんこと?」
手が止まった。
「……どういう意味だ」
「年度初めに一括でお納めになっていますわね。ですが支払いを分割にすれば、最初の三ヶ月は金貨200が手元に残ります。その間に鉱山へ追加投資すれば、産出量を前倒しで増やせるのではなくて?」
杯を傾ける白い指先が、淀みなく動いている。紅茶の水面は揺れもしない。この女は俺の領地の血流を読みながら、一口も零さない。
「……王都に分割支払いの前例はあるのか」
「エルヴィン家の文官が手続きに慣れております。書式も持参しておりますわ」
帳簿に伸ばしかけた手を引いた。こいつ、婚約初日から仕掛けてきている。しかも的確だ。
「オットー、鉱山の現状は」
部屋の隅で帳簿を抱えていたオットーが、声に張りを込めて答えた。
「はい。鉄鉱石の産出が始まりました。日産で荷車二台分。品質は鍛冶師の鑑定通り、精錬の手間が半分で済む良質な鉱石です」
数字を報告する声が明るい。二重記帳を学び始めた頃から、こいつの目に光が戻りつつある。
「三ヶ月後には本格的な出荷が見込めます。計算上は」
「それで?」
セラフィーナがオットーに視線を向けた。こいつがこの二文字を使う時は、もう一段深い情報を引き出そうとしている。
「あ、え、鉄の品質ですが、刃物にも農具にも対応できる水準でして——」
「鑑定なさった鍛冶師に、お会いしたいのですけれど」
セラフィーナの杯を持つ手が止まった。紅茶の水面がかすかに揺れる。初めて動作が途切れた。
「腕は確かだ。手配する」
セラフィーナの口元がゆるんだ。だが目の奥に、昨夜までとは違う色が混じっている。
◇
執務室の扉が叩かれた。
赤毛に火傷痕。煤の匂いがした。鉱石のサンプルを布に包んで、リーゼロッテが入ってきた。
「お呼びと聞いたんで——」
白金の髪。翡翠の瞳。机の向かいに座る女を見て、リーゼロッテの足が止まった。
リーゼロッテの目が動いた。セラフィーナの髪、姿勢、杯を持つ指先。火傷痕のある頬が引きつった。鉱石の包みを握る手に、力が入っている。
「リーゼロッテだ。領内で最も腕のいい鍛冶師で、鉱石の品質鑑定をしてもらった」
「お初にお目にかかります。セラフィーナ・フォン・エルヴィンと申します」
セラフィーナの視線が一瞬で全てを撫でた。赤い髪。荒れた頬。鍛冶師の手。
「幼い頃からお世話になっているのですね」
誰もそんなことは言っていない。
リーゼロッテが息を呑んだ。セラフィーナは紅茶を一口、急がずに含んだ。
「鉱石のこと、詳しくお聞かせくださいまし」
「……筋がいい鉱石だ。粒が均一で、不純物が少ない。刃物にも農具にも使える」
声が硬い。リーゼロッテは鉱石の話だけは淀みなく答えたが、目がセラフィーナから逃げている。顔を背けるように窓の方を向いた。
「それだけか?」
「……それだけだ」
リーゼロッテが鉱石の包みを机に置いた。布を開かず、そのまま。
「あたしは……あんたの家臣だから」
声が低かった。ユリウスに向けた言葉だ。だが目はセラフィーナの方を向かなかった。
リーゼロッテが扉に手をかけた。背中が震えていた。
追いかけたかった。だが拒否権条項が頭をよぎった。追いかける姿を見せれば、セラフィーナは何を読む?
拳を膝の上で握った。
セラフィーナは紅茶の杯を口元に運んだ。視線は窓の外を向いていた。
◇
執務室の扉が再び開いた。
ヘルムートだった。いつもの無言の足音。だが眉間の皺が深い。
「若様」
「何だ」
「国境の斥候から。帝国軍が兵を集めている。約3,000」
セラフィーナの白磁が傾いだまま止まった。朝から一度も乱れなかった所作が、二度目の静止を刻んだ。
背筋に冷たいものが走った。
3,000。こちらの全戦力は巡回兵を含めて200に届かない。十五倍。
数字の羅列が頭を横切る。「集めている」——まだ動いていない。3,000を国境に貼り付けるだけで日に何十台分の糧食がいる。そして山間の隘路。あの地形なら、全軍が一度に通れない。
机の上に残った帳簿が、急に色褪せて見えた。上納金の支払い時期も、鉄鉱石の産出量も、この数字の前では誤差だ。
それでも、口角が上がっている。
面白い。




