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転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


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死地の利得

 朝霧が、隘路を塞いでいた。


 岩壁に背を預け、谷底から昇る白い靄を見下ろしている。石の冷たさが背中を噛んでいる。夜露を吸った革鎧が重い。橋を落として二日。帝国軍は隘路の手前に陣を敷いたまま動いていない。


 谷底から湿った風が這い上がってくる。霧の中に鉄の匂いが混じっている。帝国の陣からだ。3,000の兵が煮炊きする煙と、武具の油。


 斥候の報告が指揮官のもとに届いている頃だ。退路を断った200。その意味を、向こうがどう読んだか。偵察に一日、判断にもう一日。二日、待った。指先の感覚が鈍くなるほど冷えた朝を、二度やり過ごした。


 鉄が擦れる音が、谷間に響いた。


「来た」


 ヘルムートの声だった。岩陰に伏せた老兵の手が、剣の柄に触れている。岩壁の向こうから伝わる振動が、足の裏で数えられる。多い。先遣隊ではなく、本隊の先鋒だ。


 身を低くした。岩の角が膝に食い込む。隙間から、隘路を覗いた。


 朝霧の中に、鉄兜の列が現れた。隊列は二列。隘路の幅がそれ以上を許さない。先頭の兵が盾を構え、その背後に槍が林立している。


 先鋒の後ろに、馬上の男がいた。霧の中でも外套の染料が濃い。金が掛かっている。


 距離が詰まった。三十歩。霧が薄くなり、男の顔が見えた。


 目が細くなった。笑みが消える。


 色が浮かんだ。


 一番に染まったのは戦功だ。他の全てを焼くように、強い。手柄を持ち帰らなければならない男の色。その陰に、兵の損耗への警戒が滲んでいた。自分の兵を無駄に減らしたくない。二つの色が天秤にかかっている。


 もう一色。薄い。目を凝らさなければ消えそうなほど暗い。宰相への忠誠。だが前の二つに比べれば、ほとんど無いに等しい。


 この男は宰相の命令で来たが、宰相のために死ぬ気はない。


 充分だった。


 目を閉じ、開いた。口角が上がっている。



    ◇



 角笛が、谷を割った。


 岩壁の上から石と矢が降る。ヘルムートの正面部隊が、隘路の出口を塞いだ。帝国の先鋒が二列のまま足を止め、後続が詰まった。


 悲鳴が反響した。狭い岩壁に挟まれた帝国兵は盾を上げるしかなく、横に展開する余地がない。石が兜を叩く音が、乾いた拍手のように谷に響いた。血と土埃の匂いが、谷底から吹き上がる風に混じった。


 俺は動かなかった。岩の上から、戦場を見下ろしている。剣は腰にある。抜く必要がない。地形が剣の代わりをしている。


 ヘルムートの剣が、隘路の入口で帝国兵を押し返していた。白髪に返り血が跳ねている。あの年で、先頭に立つ。片目の老人が盾ごと帝国兵を弾き飛ばした。


 先鋒の被害が広がった。帝国軍が後退を始める。馬上の指揮官が手を上げ、隘路から兵を引いた。


 引いた。


 ヘルムートが隘路の入口で足を止めた。血に濡れた剣を下げたまま、息を整えている。追撃の構えは見せなかった。


 追わない。ここから一歩でも踏み出せば、隘路の壁が味方でなくなる。深追いすれば地形の利が消える。



    ◇



 日が傾いた頃、帝国軍は隘路の外に陣を張り直していた。西日が岩壁を赤く染め、乾いた血の跡を隠している。隘路の中に残された帝国兵の遺体を、民兵が端に寄せていた。


 先鋒の損害は三十から四十。3,000にとっては蚊に刺された程度だが、隘路を力で抜けば百以上を失う。あの男の天秤。戦功と兵の損耗。一度目の接触で、兵の方に傾いた。


 南の山中から、別の煙が上がっていた。リーゼロッテが補給路を焼いている。帝国の荷車が減り始めた。


 足りない。退くには至らない。戦功の色は、まだ強い。


「オットー」


 背後に控えていた文官が、羊皮紙を抱えたまま近づいた。墨で汚れた指先が、羊皮紙の端を几帳面に揃えている。戦場の後方にいても、この男の手元だけは書斎と変わらない。


「伝令を出す。帝国側に、わざと拾わせろ」


 オットーの羊皮紙を握る手に力が入った。だが眼鏡を押し上げ、頷いた。書式と筆跡を揃える仕事なら、この男は揺るがない。


 偽の書簡を渡した。王国東部のエルヴィン家から援軍が出発した。三日後に到着する、という文面。


 エルヴィン家の書式に揃えてある。セラフィーナが渡した見本と紙の質まで合わせた。嘘に本物の皮を被せた。


 伝令が山道を駆けた。砂利を蹴る音が遠ざかり、夕闇に紛れていく。わざと帝国の哨戒線を横切らせる。捕まるか、殺されて書簡を奪われるか。どちらでも届く。


 岩壁に寄りかかった。西日が完全に落ち、谷間に夜の冷気が戻り始めていた。あとは、あの男が退く理由を積み上げるだけだ。



    ◇



 翌朝。霧が昨日より薄い。


 帝国軍の陣から、荷車が動き始めた。


 南ではない。東だ。来た方角に戻っている。


 岩の上から見下ろした。馬上の指揮官は後方にいた。距離がありすぎる。色は見えない。だが動きが全てを語っていた。


 援軍が三日で来る。隘路は力で抜けない。兵を失えば戦功も消える。退いて体勢を立て直す方が、手柄を持ち帰る道が残る。


 あの天秤が、傾いた。


 肩の力が抜けた。だが胸の奥は冷たいままだ。


「退くぞ」


 ヘルムートの声が、後ろから聞こえた。隘路の向こうで帝国兵が隊列を組み直し、荷車の列に従って東へ動いている。


 勝った。200で3,000を退けた。


 膝に力が入った。二日間、岩の上に張り付いていた身体がきしんだ。立ち上がった。谷底から風が吹き上がり、汗で張り付いた髪を攫った。口角が上がったまま、空を仰いだ。朝の光が、目に沁みた。


 煙が見えた。


 南の方角。山の向こう、谷を一つ越えた先。黒い煙が、朝の空に細く昇っている。一筋ではない。二つ、三つ。


 笑みが消えた。


「……村だ」


 ヘルムートが、隣に立っていた。残った片目が、煙の方角を見ている。腕を組まなかった。ただ、立っていた。


 帝国軍は退いた。だが手ぶらでは退かなかった。通り道にあった村を焼いた。


 風が煙を東に流した。薄く、長く。焦げた木と、それだけではない何かの匂いが、微かに届いた。


 俺の偽情報が、帝国を退かせた。帝国が退く道に、あの村があった。


 口元に手を当てた。さっきまで上がっていた口角の跡を、指の腹が辿った。


 ヘルムートは何も言わなかった。風だけが、二人の間を通り抜けていく。


 煙が、空に溶けるまで見ていた。


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