計算抜きで選べ
書斎の蝋燭が二本。羊皮紙の束を広げていたが、文字が頭に入らない。カタリナの声がまだ耳に残っていた。逃げたら承知しない。逃げたいわけじゃない。ただ、何を言えばいいのかがわからなかった。
扉が開いた。ノックはなかった。
セラフィーナが立っていた。扇子を持っていない。白金の髪が肩に落ちかかっている。編んでいない。鍛冶場で見た時とは別の顔だった。鎧がない。
「ユリウス」
敬語がなかった。名前だけだった。
「あなたはその目で人の心を読む。計算で人を動かす」
歩いてくる。足音が素足だった。革靴を脱いできている。
「私も、リーゼロッテも、カタリナも。あなたの目には数字に見えてるの?」
否定しようとした。口が開いて、閉じた。最初はそうだった。セラフィーナの1位を読み、リーゼロッテの2位を利用し、カタリナの灰色を手駒にした。最初は、全部計算だった。
「私を選ぶなら、計算抜きで選んで」
セラフィーナの声が低い。震えていない。鍛冶場で扇子を握り込んでいた手が、今は何も持たずに体の横に下がっている。
「その目を使わないで、私の目を見て、答えて」
翡翠の瞳が蝋燭の光を拾っている。あの書斎の夜と同じ目だった。婚姻を切り出してきた夜。靄が見えた夜。見えないことが怖かった夜。
利得の目を起動しかけた。反射だった。半年間、この女の前では必ず動いていた。1位の靄を読もうとして、読めなくて、それでも読もうとした。
止めた。
目を閉じた。利得の目ではなく、ただ、目を閉じた。視界が消えた。色も靄も輪郭も消えた。
開いた。
セラフィーナが立っていた。翡翠の瞳。仮面がない。扇子がない。白金の髪が肩にかかっている。ただそれだけの、二十二歳の女がいた。
靄は見えない。1位も2位もない。数字がない。色がない。
見えなくても、分かった。
この女が何を一番に置いているのか。靄の正体を、利得の目なしで知っている自分がいた。いつから知っていたのか。たぶん、ずっと前からだ。見えないことが怖くて、見ようとし続けていただけだった。
「お前が好きだ」
声が掠れた。
「計算じゃない。最初は計算だった。でも、いつからか」
言葉が詰まった。続きが出てこない。いつからかの答えを、俺は持っていなかった。
「遅いのよ」
セラフィーナの声が割り込んだ。泣き笑いの声だった。目が濡れている。口元が笑っている。敬語の欠片もない。
「ずっと待ってた。ずっと。あなたが計算を止めるのを」
手が伸びてきた。両手が俺の頬を挟んだ。掌が温かい。指先がこめかみに触れている。あの裁判前夜と同じ手つきだった。だが今夜は目を塞がなかった。俺の目を覗き込んでいる。
「見なくていい。もう、見なくていい」
唇が触れた。冷たくなかった。最初から温かかった。婚礼の夜は冷たかった。裁判前夜も冷たかった。あの大敗の夜は涙で湿っていた。四度目は、最初から温度があった。計算がないからだ。恐怖も敗北もない。ただ、ここにいたいという衝動だけがあった。
腕を回した。細い体を引き寄せると、セラフィーナがしがみついてきた。力が強い。あの夜と同じだ。何日も一人で支え続けた腕の力。だが今夜は違う。しがみつく理由が違う。
蝋燭が一本消えた。
残りの灯りの中で、セラフィーナの呼吸が変わった。浅く、速くなっている。衣擦れの音がして、布が肩から滑り落ちた。白檀の匂いの下にある、生身の匂い。
指先が鎖骨を辿った。脈が指の腹に当たる。速い。爪が肩に食い込んできた。引き寄せる力だった。押し返す力は、なかった。
◇
窓の外が白んでいた。
目を開けると、白金の髪が腕の中にあった。セラフィーナが起きている。俺の胸に額を押しつけたまま、動かない。編んでいない髪が背中に流れている。肩から夜着がずれて、首筋に赤みが残っていた。
裁判前夜の朝、セラフィーナは先に起きて鎧を纏っていた。あの大敗の朝は窓辺に立って敬語を戻していた。今朝は、まだここにいる。
「バカ」
胸に額を押しつけたまま、セラフィーナが言った。
婚礼の夜と同じ言葉だった。あの大敗の夜と同じ温度だった。だが今度は、声が笑っていた。
「四回目にしてやっと、計算なしで来たわね」
顔を上げた。翡翠の瞳が朝の光を受けている。泣いた跡があった。だが目が笑っている。仮面のない、素の笑顔だった。
利得の目は起動しなかった。する必要がなかった。
セラフィーナの1位が何であるか、もう靄は要らない。見えなくても分かる。見える必要がない。それが答えだった。




