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転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


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覇者の朝

 鉄を打つ音で目が覚めた。


 規則正しい。一打ごとに間がある。鍛冶場から風に乗って届く、リーゼロッテの朝だった。あいつは日の出前から火を起こす。鉄が冷める前に叩かなければ形にならないのだと、以前聞いた。


 腕の中に重みがあった。白金の髪が胸元に散らばっている。セラフィーナの寝息が鎖骨のあたりに当たる。浅くて静かだ。起きている時とは別の生き物のように穏やかで、仮面も扇子も敬語もない。


 夜着が肩から落ちている。首筋にまだ赤みが残っていた。


 起こさないように腕を抜こうとして、指先を掴まれた。目を閉じたまま、握っている。寝ぼけているのか。それとも、寝たふりか。


 どちらでもよかった。


 もう少しだけこのままでいようとした時、廊下を足音が近づいてきた。規則的だが、わずかに左足が重い。


 扉が三度叩かれた。


「朝食をお持ちしました」


 ヘルムートの声だった。低くて平坦で、感情を載せない声。松葉杖の音がない。あの大きな体を、自分の足で支えている。


「置いておいてくれ」


「かしこまりました」


 足音が遠ざかる。左足の引きずりが聞こえるが、歩幅は狭くない。あの男は痛みを隠す。隠し方で回復がわかる。今朝の足音は、悪くなかった。


 セラフィーナの指が離れた。白金の髪が枕の上で広がったまま、寝返りを打つ。


 俺はベッドを抜け出した。



    ◇



 朝食の皿に手をつけている途中で、帳簿を抱えた男が飛び込んできた。


「ユリウス様! 帝国との四半期の貿易額がまとまりまして、これが過去最高で——」


 オットーが羊皮紙を広げる。眼鏡の奥の目が輝いていた。数字を突きつけるくせに、その数字が良い時だけ嬉しそうな顔をする男だ。初めて会った日も帳簿を抱えていた。あの時は赤字の数字で、目が泳いでいた。


「——あっ」


 オットーの視線が俺の背後を通り過ぎた。寝室から続く扉が半開きになっている。


「お取り込み中でしたか」


「違う。もう起きてる」


「は、はい。では後ほど改めて」


 帳簿を胸に抱えたまま後退る。耳が赤い。あいつは数字には強いが、それ以外のことには相変わらず弱かった。


 食卓の端に、封書が置いてあった。ヘルムートが朝食と一緒に運んだらしい。蝋印はリヒテンベルク家。


 開くと、カタリナの字だった。帝国北部の新交易路の報告が便箋三枚に詰まっている。商路の利点と隣接領との折衝の進捗。実務的で、隙がない。


 末尾にだけ、実務から外れた一行があった。


「こちらは退屈よ。……嘘。少し楽しいわ」


 あの女らしい。嘘と言いながら、嘘の方が本当だと教えてくる。



    ◇



 朝食を終えて、館の裏手の高台に登った。


 風が強い。春先の冷たさがまだ残っている。グレンツェン領が眼下に広がっていた。鍛冶場の煙が上がっている。市場には人影が動いている。三年前、帳簿を開いて頭が痛くなった日には見えなかった光景だった。


 利得の目を、自分に向けた。


 何も見えない。


 いつもと同じだった。自分の優先順位だけは、この目に映らない。見えないことが怖かった時期があった。全員の心が読めるのに、自分の心だけが読めない。


 今は、怖くない。見えなくても分かる。見える必要がない。


 利得の目が無意識に起動した。反射だった。視界に色が重なる。


 鍛冶場のリーゼロッテ。鉄を打つ手を止めない。あの子の1位が見える。俺の名前ではなかった。剣と、剣を振るう理由。その理由の中心に、俺がいた。


 帳簿を抱えて戻っていくオットー。あいつの1位は領地の繁栄だった。その繁栄を誰と実現したいか——答えが浮かんで消えた。


 廊下を歩くヘルムートの背中。あの男の1位は昔から変わらない。守るべき主。膝が完全に治らなくても、自分の足で立って朝食を運ぶ。あの男にとって、それが忠誠だった。


 封書の向こうのカタリナ。あの女の1位は、見えない距離でも透けた。自由と、自由を認めた人間。退屈と嘘をつく手紙が、それを裏書きしている。


 そして、セラフィーナ。


 あの靄はもうない。白金の髪が朝日で透ける女の1位は、利得の目が映すまでもなかった。


 全員の1位に、俺がいる。形は違う。理由も違う。だが、いる。


 口元が緩んだ。


「……ああ、モテてるな」


 声に出ていた。前世で三十四年間、一度も言えなかった台詞が、こんなにあっさり出てきた。


「何を笑っているの?」


 背後から声がした。振り向くと、セラフィーナが立っていた。髪をまとめかけたまま、途中で諦めたように肩に垂らしている。高台まで登ってきていた。


「いや、何でもない」


「嘘。にやけていたわ」


 扇子を持っていない。朝の風が白金の髪を攫った。翡翠の瞳が俺を見ている。仮面も計算もない、ただの目だった。


 セラフィーナが隣に立った。肩が触れるか触れないかの距離。二人で領地を見下ろす。


 鍛冶場の槌音がまた響いた。市場の喧騒が風に混じる。オットーが帳簿を持って走っているのが小さく見えた。


 俺は辺境の貴族で、モテたいだけの男で、前世はただの研究者だった。ゲーム理論で人の心を読み、計算で世界を動かそうとした。動いた。だが計算では説明できないものが残った。それでよかった。


 風が吹いた。セラフィーナの髪が頬をかすめた。白檀の匂い。


「さて、今日もゲームを始めよう」


 三年前と同じ台詞だった。だが声が違った。あの日は冷たかった。計算だけがあった。今日は——温かいのかもしれない。自分の声の温度は、利得の目には映らない。


 セラフィーナが横目で俺を見た。何も言わなかった。ただ、少しだけ肩を寄せてきた。


 鉄を打つ音が、朝の空気に響いていた。


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