コストリーシグナル
フリードリヒの城は、石の匂いがした。
門をくぐった瞬間から、余計なものが一切なかった。装飾のない壁。磨き抜かれた床。兵の姿が見えないが、靴音を立てた瞬間に矢狭間の奥で気配が動いた。
隣を歩くセラフィーナの扇子が、閉じたままだった。王都モードだ。顎が上がり、視線が一段鋭くなっている。
「よく来られた」
広間の奥に、白髪を短く刈った男が座っていた。背筋が伸びている。半年前と変わらない。あの時と同じ灰色の目が、こちらを見ていた。
目を細めた。
色が浮いた。一番に立っているのは矜持だ。あの日と同じ強さで、まっすぐに立っている。微動だにしない。その下に帝国への警戒。だがやはり、矜持に比べれば薄い。
変わっていない。この男は半年前から何も変わっていない。
「同盟の話であれば、帰れ」
フリードリヒの声に怒りはなかった。ただ事実を述べている。
「お前はまた口で人を動かしに来たのだろう。前と同じだ。あの時も、隣の二人には甘い餌を撒いた。俺には通じなかったがな」
レンツとブルーメのことだ。セラフィーナの扇子の骨が微かに鳴った。指先に力が入っている。
「フリードリヒ卿」
俺は立ったまま言った。座れとも言われていない。
「鉱山の話をしに来ました」
「鉱山?」
「グレンツェンの鉄鉱山の収益を、戦費に出します。七割」
フリードリヒの眉が動いた。
隣でセラフィーナの扇子が止まった。握り込んでいる。指の関節が白い。
七割。月あたり金貨42から56。領地の経済基盤の大半だ。モテるために掘った鉱山。金が入るようになって、ようやく領地がまともに回り始めた。それを手放す。
「施しか」
フリードリヒの声が低くなった。
「要らん。他人の金で領地を守る男ではない」
矜持が揺れない。利得の目越しに見ても、一番の色はそのままだ。助けてもらうこと自体が、この男の矜持を傷つける。
分かっている。だから来た。
「施しじゃありません」
声が出た。喉が乾いている。
「俺の領地が痩せます。モテたくて始めた金稼ぎです。女に良い暮らしをさせたくて掘った鉱山です。それを捨てに来た。この痛みを見せに来ました」
広間に沈黙が落ちた。
セラフィーナの呼吸が変わった。扇子を握る手が震えている。鉱山の数字ではない。あの目が俺を見ている。計算で動く男が計算を捨てた——その一点を、翡翠の瞳が追っていた。
扇子を閉じた。両手で、静かに。
フリードリヒの灰色の目が、こちらを射ていた。腕を組んでいた体が、ゆっくりと解けた。
「痛い思いをする覚悟があるなら、話は別だ」
利得の目越しに見た。矜持は一番のままだ。変わっていない。だがその色の奥に、別の光が滲んでいた。
手が差し出された。握った。硬い手だった。農具と剣を同じ手で握ってきた男の手だ。
握手が解けた後、フリードリヒが半歩だけ距離を詰めた。声が低く、穏やかになった。
「ついでに言っておく」
灰色の目が、俺の目を覗き込んだ。
「お前の目のことだ」
足が止まった。呼吸が消えた。
「見えているのだろう、人の腹の底が」
広間の空気が凍った。セラフィーナの扇子を握る手が、一瞬だけ震えた。
フリードリヒは笑った。牙を剥くような笑いではない。戦場で隣に立つ男を見る目だった。
「あの時から気づいていた。お前はレンツとブルーメの欲しいものを、一目で当てた。俺の矜持も見抜いた。そんな芸当ができる人間は、目に何か持っている」
声が出なかった。
「だが今日は違った。お前は俺の腹の底を見た上で、自分の腹を切って見せた。見えていてなお、痛みを選んだ」
フリードリヒが背を向けた。窓の外を見ている。城壁の向こうに、夏の陽が落ちかけていた。
「それでも乗ってやる。お前が痛い思いをしたからだ」
城を出た時、夕陽が石壁を赤く染めていた。
セラフィーナが隣を歩いている。扇子はまだ閉じたままだ。
「あなた、自分の領地を切り売りして……」
声が途切れた。言葉を探しているのではない。言葉にすると壊れる何かを、飲み込んでいる。
俺は前を向いたまま歩いた。利得の目がバレていた。半年前から。それでもあの男は乗ると言った。口ではなく、痛みで示したからだ。
残りの諸侯を回らなければならない。フリードリヒが応じたという事実が、次の交渉で使える。だが同じ手は通じない。次の相手には、別の痛みが要る。
三ヶ月の残りが、指の間からこぼれていく。




