見えないもの
包帯の匂いが廊下まで漂っていた。
扉を開けると、リーゼロッテがベッドに起き上がっていた。右腕から肩にかけてを白い布が覆い、額にも細い帯が巻かれている。だが目は開いていた。窓から射す朝の光を浴びて、あの据わった視線がこちらを捉えた。
「遅い」
開口一番がそれだった。声は掠れている。一週間、ろくに使っていなかったのだろう。それでも口調はいつものリーゼロッテだった。
「……悪い」
椅子を引いて座った。枕元に水差しと、食べかけの黒パンがある。半分も減っていない。
何から言えばいいのか分からなかった。殿軍を任せたこと、血だらけで帰ってきたこと、意識が戻るまでの七日間。言葉にすると全部が軽くなる。黙って座っているしかなかった。
リーゼロッテが俺の顔を覗き込んだ。
「あんた、泣いてたろ」
息が止まった。
「……嘘だ」
「嘘つくの下手だな、昔から」
口の端が上がっている。笑っていた。包帯だらけの顔で、馬鹿にするように笑っていた。
「セラフィーナ様が教えてくれた。あんたが泣いたって」
あの夜のことだ。セラフィーナの前で崩れた、あの夜。いつの間にリーゼロッテに伝えたのか。あの二人の間に、俺の知らないやり取りがある。
窓の外で鳥が鳴いた。春が近い。傷だらけの領地に、季節だけが律儀に巡ってくる。
「なあ、ユリウス」
リーゼロッテの声が変わった。からかう調子が消えて、低く、静かになった。
「あんたが本当に守りたいものは何だ? モテたいとか、そういうんじゃなくて」
利得の目は起動しなかった。使おうとも思わなかった。あの目は選択肢を並べて、数字を浮かべて、最適解を教えてくれる。だが今、欲しいのは最適解ではなかった。俺自身の言葉が欲しかった。
リーゼロッテの包帯の隙間から、火傷の痕が覗いている。鍛冶場で負った古い傷だ。その上に新しい傷が重なっている。殿軍で受けた傷。俺の命令で負った傷。
「お前たちだ」
声が出た。考えてから言ったのではなかった。
「お前たちを失いたくない」
リーゼロッテが目を伏せた。睫毛が影を落として、包帯の白さの中で唇だけが微かに動いた。
「……そっか」
嬉しいような。切ないような。そのどちらとも決められない声だった。窓からの光がリーゼロッテの横顔を照らしていて、俺はその表情の意味を掴めないまま、黙っていた。
沈黙が長かった。鳥の声が遠くなった。リーゼロッテは窓の外を向いたまま、それ以上何も言わなかった。
ヘルムートの部屋は、廊下の突き当たりだった。
扉を開けると、白髪が枕の上に散っている。いつも結い上げていた髪が解けて、老人の顔を覆うように乱れていた。左目が閉じたままだ。包帯ではない。腫れが引いていない。
だが右目が開いた。
ベッドに横たわったまま、片目でこちらを見上げてくる。ぼやけた焦点が合うまで数秒かかった。乾いた唇が動いた。
「……若様」
声は枯れていた。一週間、水以外ほとんど喉を通っていないのだろう。だが開いた方の目にはいつもの鋭さがあった。俺を射抜くような、あの視線。
「半人前は卒業か」
俺は言葉を返せなかった。喉の奥が詰まって、息を吸い直した。
あの日、ヘルムートが言った。「あの娘の気持ちがわからんなら半人前だ」。リーゼロッテの気持ち。俺はまだ分からない。分かったとは言えない。だがさっきの「そっか」の声を、俺は聞いた。あの声の中に何かがあった。掴めなかったが、確かにあった。
「……わかりません」
「正直だな」
ヘルムートの右目が細くなった。笑ったのだ。片目だけの、皺だらけの笑い。
「だが泣けるようになった。それだけで十分だ」
この人にも伝わっている。セラフィーナか、リーゼロッテか。どちらかが話したのだろう。俺が知らない場所で、俺の知らない会話が交わされている。
ヘルムートが天井に目を戻した。片目が閉じたまま、もう片方の目だけが光を拾っている。俺が退室するのを待つでもなく、眠るでもなく、ただ天井を見ていた。
部屋を出た。廊下の窓から、中庭が見えた。石壁の修繕作業が続いている。オットーが帳簿を抱えて走っていた。兵が資材を運んでいた。傷だらけの領地が、それでも動いている。
モテたい。守りたい。勝ちたい。
全部だ。優先順位など知るか。
右手が震えていた。声が掠れている。あの夜、セラフィーナの前で壊れた身体が、まだ元には戻っていない。だが目は見えている。見えないはずのものが、今は見えている。
三ヶ月の期限はまだ残っている。
ルドルフ、お前が読めないものを見せてやる。




