セラフィーナの泪
扉を開けたのは、俺ではなかった。
鍵はかけていた。だがセラフィーナは合鍵を持っていた。当然だ。この館の鍵を管理しているのは彼女だった。取っ手が回り、蝋燭の灯りが廊下から射し込んで、寝室の暗がりに一筋の線を引いた。
白金の髪が乱れていた。いつもなら一本の隙もなく編まれているのに、今夜は肩に落ちかかっている。目の下に濃い隈があった。扇子を持っていない。
「ユリウス」
敬語がなかった。
俺はベッドに座ったまま動けなかった。昨日から同じ姿勢だった。窓の外が暗いのか明るいのかも分からなくなっていた。利得の目は何も映さない。空白が続いている。
セラフィーナが部屋に入り、扉を閉めた。蝋燭は廊下に置いてきたらしく、暗闇が戻った。足音だけが近づいてくる。ベッドの端に、重みが加わった。
「泣いていいわ。私は見ているから」
声が低かった。王都の社交で使う声ではない。鎧を脱いだ声だった。
何も言えなかった。言葉を探したが、計算者としての語彙が全部死んでいた。戦略も最適解も利得構造もない。空っぽの頭に残っていたのは、ヘルムートが崩れ落ちる映像と、血だらけで帰ってきたリーゼロッテの背中と、帳簿を抱えて泣いていたオットーの震える手だった。
口が勝手に開いた。
「モテたいって思ってた」
声が掠れていた。自分の声だと認識するまで二拍かかった。
「英雄になりたかった。鉱山を開いて、兵を集めて、外交で名を売って。全部、格好つけたかっただけだ」
鼻の奥が熱くなった。止められなかった。
「でも——ヘルムートが死にかけて、リーゼロッテが血だらけで帰ってきて、オットーが泣いてて」
視界が滲んだ。暗闇の中なのに、滲んだ。
「俺の計算で、こいつらが壊れた」
零れた。涙が顎を伝って、膝の上に落ちた。止め方が分からなかった。計算者としての自分はもう死んでいて、泣き方を知らない人間だけが残っていた。
頭に温かいものが触れた。セラフィーナの掌だった。指が髪を掻き分けて、頭蓋を包むように抱えられた。引き寄せられて、額がセラフィーナの肩口に押しつけられる。布越しに鎖骨の硬さが額に当たった。白檀の匂いの下に、汗の匂いがあった。何日も休んでいない人間の匂いだった。
「バカ」
一言だった。婚礼の夜と同じ言葉だった。だが声の温度が違った。あの夜は呆れていた。今夜は——声が震えていた。
泣いた。声を殺せなかった。セラフィーナの肩口に顔を押しつけたまま、みっともなく泣いた。計算者の仮面も、英雄の外套も、全部床に落ちた。セラフィーナの指が後頭部を撫でている。規則的で、ゆっくりで、何も求めない手つきだった。
どれくらい経ったのか分からない。涙が枯れた後も、しばらくそのままでいた。セラフィーナの呼吸が規則的に胸を動かしていて、その振動が額に伝わっていた。
顔を上げた。暗闇の中で、翡翠の瞳が光っていた。蝋燭はないのに、どこかから射す微かな月明かりを拾って、緑が浮かんでいた。
「あなたが壊れたら、私が支える。それが私の仕事よ」
敬語がない。素のセラフィーナが、俺の目を見ていた。
手を伸ばした。頬に触れた。指先に涙の跡があった。俺のではない。セラフィーナが泣いていた。いつから泣いていたのか分からなかった。
唇が触れた。計算ではなかった。駆け引きでもなかった。冷たかった唇が、すぐに温度を持った。セラフィーナの手が俺の首筋に回って、指先がうなじに触れた。
残っていた距離が消えた。腕の中に引き寄せると、細い身体がしがみついてきた。思ったより力が強かった。何日も一人で支え続けた腕の力だった。
◇
窓の外が白んでいた。
目を開けると、セラフィーナが先に起きていた。窓辺に立っている。肩から夜着がずれていて、首筋に赤みが残っていた。だが書類を広げてはいなかった。ただ窓の外を見ている。
白金の髪が朝の光を受けて光っていた。まだ編んでいない。昨夜のまま、肩に落ちかかっている。
「セラフィーナ」
振り返った。翡翠の瞳に、昨夜を経た何かがあった。微笑みの形は王都のものではなかった。
「リーゼロッテが目を覚ましたわ」
敬語が戻っていた。だが声の温度は、もう昨日までとは違った。
そしてリーゼロッテの口から出た言葉を、俺はまだ知らない。




