敗北の朝
廊下で、オットーが座り込んでいた。
壁に背をつけて、帳簿を膝の上に広げている。インクに染まった指が震えていた。眼鏡が曇っている。拭こうともしない。
俺の足音に顔を上げた。目が赤い。
「数字が、合わないんです」
声が掠れていた。帳簿番が数字の前で泣いている。開かれたページの左側に、フリッツの名前があった。あいつが死んでから、ずっとそこにある。その隣に、新しい名前が並んでいた。昨日まで飯を食っていた連中の名前だ。一人ずつ、オットーの震える字で書き込まれている。インクが滲んでいる箇所があった。涙が落ちたのだろう。
「合わないんです。出発した人数と、帰ってきた人数が」
知っている。民兵の半数が帰ってこなかった。リーゼロッテの民兵が帝国軍に突入して、本隊の撤退時間を稼いだ。数字は合っている。帰ってこなかった分を引けば、帳簿は閉じる。
だがオットーはそうしなかった。名前を書いている。数字ではなく、名前を。合わない合わないと言いながら、帳簿を閉じられずにいる。数字の向こうに名前がある。帳簿番として、それに気づいてしまったのだ。
俺は何も言えなかった。オットーの横を通り過ぎて、自室の扉を閉めた。
ベッドに倒れ込んだ。天井の染みを見ている。昨日からずっとここにいる。水差しの水は減っていない。喉が渇いているはずなのに、手を伸ばす気になれなかった。
ヘルムートが意識を取り戻さない。矢を受けて崩れ落ちた白髪の背中が、目を閉じるたびに浮かぶ。片目が閉じたまま、泥の中に倒れた。あの背中を、俺は「半人前」と呼ばれた時から追いかけていた。リーゼロッテは生きていると伝令が言った。重傷だが、生きている。見舞いに行く気力がない。鍛冶場で火傷痕に触れた指が、まだ感触を覚えている。あの指で何を言えばいい。
利得の目を開いた。
自分に向けた。
何も見えなかった。
いつもなら他人に向ければ何かが浮かぶ。優先順位、恐れ、欲。数字のように透けて見える。それを読んで、最適な選択肢を差し出してきた。戦略と呼んでいた。だがいま、こめかみの奥で利得の目が回転している感覚だけがあって、何も映さない。
自分には、何も返ってこない。空白だった。利得の目が映すのは他人の構造だけで、自分の中身は最初から見えない。知っていたはずだ。だが今日の空白は、いつもと違った。
いつもの空白は「仕方がない」で片づけられた。今日のは、胸の底が抜けたような空白だった。
俺は何を間違えた。
ルドルフに全て読まれた。消耗戦略も、統一指揮の崩壊も、撤退の判断も。あの男は俺の計算を正確に予測して、その一手先に駒を置いていた。同じ言語を話す相手には、計算で勝てなかった。盤面を読む速度が同じなら、兵力の多い方が勝つ。当たり前の結論だ。最初から分かっていたはずだ。
東部は半壊した。根拠のない三ヶ月すら、もう意味がない。
だが、問いが変わった。
俺は何がしたかったんだ。
鍛冶場の匂いが蘇った。鉄と汗と、砥石の粉。リーゼロッテが剣を研いでいた。「あんた、まだ分からないのか」。分からなかった。分からないまま、火傷痕に指が触れて、唇が触れた。あの瞬間、利得の目は閉じていた。彼女の優先順位を読もうとしたか。していない。計算は止まっていた。
ヘルムートが崩れ落ちた瞬間。白髪が泥に汚れて、片目が閉じたまま動かなくなった。駆け寄ろうとして足がもつれた。あの時、撤退の利得を計算していたか。していない。ただ、師の名を呼んだ。声が裏返っていたことだけ覚えている。
さっきの廊下のオットー。帳簿の数字の向こうにある名前を、一つずつ書いていた。インクで汚れた指が震えるのを見て、俺は戦死者を数字として処理できたか。
できなかった。
俺は最初から、計算で人を動かしてきた。利得の目で相手の優先順位を読み、最適な手を差し出し、動かしてきた。それを戦略と呼んだ。だがこいつらは——こいつらは、俺の計算の駒じゃなかった。駒だと思っていたのは俺だけだ。
利得の目は空白のままだった。
見えないのではない。見る必要がないのだ。守りたいものの前で、利得を計算する意味があるか。
「……くそ」
天井に向かって声が漏れた。
「計算で人を動かしてきた俺が、計算なしで守りたいって思ってる」
言葉にした瞬間、体の力が抜けた。ベッドの軋む音がやけに大きく聞こえた。天井の染みがぼやけて、視界が滲んだ。計算者としての自分が死んだのか、何か別のものが生まれたのか、分からなかった。窓の外の光が白い。起き上がれなかった。
扉を叩く音がした。
「開けなさい」
セラフィーナの声だった。敬語がない。




