剣は折れた
鍛冶場の扉を開けると、鉄と汗の匂いが顔にぶつかった。
炉の残り火が薄暗い室内を赤く染めている。リーゼロッテが砥石の前に座っていた。剣を膝に載せて、ゆっくりと刃を研いでいる。こちらを見ない。
「何の用だ」
声に温度がない。あの夜の叱責以来、ずっとそうだった。
「明日、出る」
「知ってる」
砥石の上を刃が滑る音だけが続いた。炉の熱が首筋を焼く。リーゼロッテの額に汗が浮いている。赤毛が頬に張りついて、火傷痕の縁に触れていた。
「あんた、まだ分からないのか」
手が止まった。砥石から刃を上げて、初めてこちらを見た。琥珀の瞳が炉の火を拾っている。
「何が」
「自分が何で怒ってるかも分からないのか」
俺は答えられなかった。分かっていた。あの夜、全員の前でリーゼロッテを叱責した。命令違反を咎めたのは正しかった。だが正しさは、あいつの顔から光を消した。
言葉が出てこない。代わりに手が伸びた。指先がリーゼロッテの左頬に触れた。火傷痕の表面はざらついていて、周囲の肌より温かい。
リーゼロッテの息が止まった。
指が痕を辿って、顎の線まで降りた。唇を寄せた。火傷痕に触れる。砥石の粉と鉄錆の匂いが鼻に入った。リーゼロッテの喉から、押し殺した息が漏れた。
「……バカ」
セラフィーナと同じ言葉だった。だが声が違う。掠れていて、低くて、怒っているのか泣いているのか分からない声だった。
リーゼロッテの手が俺の胸を押した。強くはない。離れろという拒絶ではなく、これ以上近づくなという境界だった。
「行くぞ。研ぎが終わってない」
砥石の音が戻った。俺は鍛冶場を出た。
翌朝、防衛線が崩れた。
帝国軍の主力が正面から突入してきた。三方に分散していた兵力が、一点に集中している。ルドルフの判断だろう。分散を続ければ消耗戦に持ち込まれる。ならば一箇所を叩き潰して、残りを降伏させる。合理的な男が合理的な手を打った。
ヘルムートが前線で指揮を執っている。白髪が朝日を受けて銀に光っていた。老兵は壁のように立ち、民兵の崩れかけた陣形を怒声で何度も立て直した。槍の穂先を揃えろ。下がるな。まだ崩れていない。片目の視野で前線全体を見渡しながら、五十五年の体が動いている。
矢が飛んだ。
ヘルムートの左肩に刺さった。音はなかった。白髪の老兵が膝をつき、片手で矢柄を掴んで折った。血が革鎧の隙間から滲む。だが立てない。二本目が右腿に刺さって、ヘルムートが横倒しになった。
半人前だ、と言われたのを思い出した。あの日、ヘルムートの拳が俺の胸を叩いた。まだ一人前じゃない。だが見込みはある。あの拳の重さを、今も胸骨が覚えている。
民兵二人がヘルムートの脇を抱えて引きずっていく。前線に穴が空いた。帝国軍の歩兵がそこに殺到する。
「撤退だ」
声が出た。自分の声だと気づくのに一拍かかった。
撤退を始めた。負傷者を担架に載せ、動ける者が両脇を支える。だが追撃を防ぐ殿軍がいない。振り返れば、帝国軍の先頭がもう百歩先まで迫っている。騎兵の蹄が地面を叩く音が近づいてくる。誰かが残らなければ、全員が追いつかれる。
俺が残る。そう言いかけた時、横から腕を掴まれた。
「あたしが残る」
リーゼロッテだった。革鎧の上から自作の鉄腕甲を嵌めている。昨夜研いでいた剣が腰にある。
「あんたは生きろ」
「ダメだ、計算上——」
「計算じゃねえよ!」
声が鍛冶場の鉄を打つ音より大きかった。琥珀の瞳が据わっている。炉の火ではない。もっと奥から来る光だった。
「あんたの計算はいつも正しい。でもな、人は計算で動かないんだ」
リーゼロッテの手が俺の腕を離した。代わりに胸の鎧を一度だけ叩いた。ヘルムートが拳で俺の胸を叩いたのと、同じ場所だった。
「あたしは計算じゃなく、あんたを守りたいから残る」
声が震えていなかった。昨夜の鍛冶場で砥石を滑らせていた時と同じ、静かな手つきだった。覚悟はとうに済んでいる。あの時からずっと。
リーゼロッテが背を向けた。赤毛が風に揺れて、火傷痕が一瞬だけ見えた。民兵たちが後に続く。二十人もいない。帝国軍の先頭に向かって、走り始めた。
走った。俺は反対方向に走った。ヘルムートを担いだ民兵の後を追って撤退路を駆ける。背後で金属がぶつかる音がした。怒声が上がった。リーゼロッテの声が混じっている。何を叫んでいるのかは聞き取れない。聞き取りたくなかった。
足が止まりかけた。振り返れば、まだ間に合うかもしれない。戻って、リーゼロッテの横に立てるかもしれない。だがヘルムートが担架の上で呻いている。退路を守る兵がいなくなれば、百人が死ぬ。
走り続けた。頬が濡れていた。汗ではなかった。拭わなかった。




