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転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


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毒蛇の脈

 セラフィーナが扇子を閉じたまま切り出した。


「あの女、二重じゃないの」


 朝の宿舎だった。弾劾裁判から三日。俺は報告書を書いていて、セラフィーナは窓際に立っていた。翡翠の瞳が冷たく安定している。王都モードの目だ。嫉妬の温度はどこにもない。


「カタリナの接触が減っているわ。弾劾の前は週に二度、こちらに書簡を寄越していた。今は一通もない」


「忙しいだけかもしれない」


「あの女が忙しさで連絡を絶つ?」


 反論できなかった。カタリナは用がなくても糸を張る女だ。糸が切れたなら、意図がある。


 セラフィーナが扇子の先端を唇に当てた。考える癖だ。


「ルドルフがあの女に接触した可能性を、あなたは何割で見ているの」


 計算してみた。味方である確率を七割で見ていた。弾劾裁判で会計官の署名入り控えを出した。あれはカタリナの情報網がなければ手に入らない。上昇。だが接触頻度が落ちた。下降。ルドルフが偽の優先順位訓練を広めた事実がある。利得の目を欺く手段が存在する。もう一段、下降。


 積み上げた数字は六割だった。


「信じるには足りないが、切るには惜しい」


「それ、判断を先延ばしにしているだけよ」


 セラフィーナの声に感情がなかった。正しいから腹が立つ。


 夜になってから、カタリナの屋敷を訪ねた。


 門番に名を告げると、今度は少し待たされた。前に来た時は待っていたように通された。それだけで胸の奥に針が刺さる。小さな差異を拾う癖が、もう止められない。


 通されたのは前と同じ書庫だった。暖炉に火が入っている。蝋燭は三本。前より一本多い。


 カタリナは椅子に座っていた。膝を抱えた姿勢だった。黒いドレスに蛇の首飾り。素手だ。手袋を外している。今夜の武装は軽い。


「珍しいわね、あなたの方から来るなんて」


「聞きたいことがある」


「座ったら?」


 座らなかった。


「お前、俺を裏切るのか」


 空気が止まった。暖炉の火が爆ぜる音だけが残った。


 カタリナの黒い瞳が見開かれた。仮面の精度が落ちている。口元に笑みを貼りつける余裕がない。


 一拍。二拍。三拍目で、カタリナの唇が動いた。


「裏切らないと言ったら、信じるの?」


 答えられなかった。


 利得の目が起動した。靄が浮かぶ。灰色が一番手前にある。生存。いつも通りだ。だがその上に、別の色が透けていた。白に近い金色。前に見た時より濃い。輪郭が少しだけはっきりしている。


 名前のつけられない色だった。欲でも保身でもない。問いかけに近い何か。俺を見ているのに、俺の向こう側に手を伸ばしているような色。


「……座りなさいよ」


 カタリナの声が低かった。命令でも挑発でもない。ただの疲れた声だった。


 座った。カタリナが酒瓶を取り出して、二つの杯に注いだ。透明な酒。あの夜と同じだ。


「接触を減らしたのは、理由があるの」


「どんな理由だ」


「言えないわ。あなたに言えば、あなたが動く。あなたが動けば、気づかれる」


 それだけ言って、杯に口をつけた。喉が鳴る音は一度きりだった。


 酒が回るのが早い。判断が鈍っている自覚がある。カタリナの頬も赤い。蝋燭の灯りのせいだけではない色だった。


「あなた、本当に不器用ね」


 カタリナが膝を崩して、こちらに身体を向けた。素手の指先が卓の上を滑り、俺の手首に触れた。二本の指が脈に押し当てられる。


「速いわ」


 声が低くない。計算の声ではなかった。素の驚きが混じっている。あの夜と同じ手つきなのに、指先の圧が違う。探りではなく、確かめている。


 蛇の首飾りが揺れた。カタリナが身を乗り出した拍子に、金属の鎖が俺の胸に当たった。冷たい。その冷たさが酒の熱を切り裂いて、肌が粟立った。


 カタリナの指が手首から手の甲に降りた。爪の先が骨の筋を辿る。ゆっくりと、一本ずつ。香水は薄い。その下にある肌の匂いが、暖炉の薪に混じって届いた。


 距離が詰まっていた。いつの間にか、息がかかる距離にいる。カタリナの黒い瞳が近い。泣きぼくろが蝋燭の光を受けている。あの夜の空気だった。「帰さなかった」と言ったあの空気が、また部屋を満たしかけている。


 手を引いた。


 カタリナの指先が、空を掴んだ。


「まだ答えが出ていない」


 自分の声が掠れていた。


 カタリナが俺を見ている。仮面が割れたままの顔だった。傷ついた顔ではない。もっと複雑な、怒りと納得と呆れが混じった顔だった。


 それから、笑った。


「正直ね」


 声が戻っていた。仮面を被り直す気配がある。


「嫌いじゃないわ、その中途半端」


 カタリナが立ち上がった。杯を卓に置き、書庫の扉に向かう。俺を送り出す動線だった。


 扉の前で足が止まった。振り返らなかった。


「答えが出たら教えて」


 背中越しの声だ。低く、静かで、蛇の首飾りの金属みたいに冷たかった。


「でも、遅すぎたら私の方が先に答えを出すわ」


 扉が開いた。廊下の夜気が流れ込む。


 屋敷を出た。石畳が夜露で濡れていた。あの夜と同じだった。右の手首に、カタリナの指の圧が残っている。脈はまだ速い。


 六割では信じられない。七割でも八割でも足りない。だが十割を待っていたら、カタリナの期限が先に来る。


 信じるとは、何割の話なのか。


 冷たい夜気を吸い込んだ。答えは出ない。出ないまま、宿舎への道を歩いた。


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