セラフィーナの夜
書類が読めなかった。
宿舎の書斎に蝋燭が三本。ヴァルトシュタイン家が提出した帳簿の写しを広げていたが、文字が滑る。同じ行を三度読んで、何も残らない。七日後に審理が始まる。有罪なら領地没収。グレンツェンが消える。鉱山も、隘路も、あの土地で暮らす人々も。
指先が冷たい。拳を握って、開いた。
扉が鳴った。ノックではなく、取っ手を回す音だけだった。白金の髪が書斎に入ってくる。セラフィーナは扇子を持っていなかった。
「逆撃の策は整いましたわ。エルヴィン家の書状を七通。明朝までに議会の三派に届きます」
声は王都の社交そのものだった。完璧な敬語、完璧な微笑み、完璧な鎧。
「お前、エルヴィン家を完全に敵に回す覚悟があるのか」
セラフィーナが歩みを止めた。蝋燭の灯りが翡翠の瞳に映っている。
「あなたが落ちれば、私も落ちる。政略結婚とはそういうもの」
間があった。蝋燭の炎が揺れて、壁に影が動いた。
「でも、それだけじゃないの」
敬語が消えていた。声が低い。セラフィーナが俺の目を見ている。仮面の下の顔だ。翡翠の瞳が何かを堪えている。怒りではない。恐怖に近い。
俺は何も言えなかった。
セラフィーナが書斎を出た。廊下を歩く足音が寝室の方へ向かっている。ついてこい、とは言わなかった。だが扇子を書斎の机に置いていった。武装解除の印だ。
帳簿の写しを閉じた。文字はどうせ頭に入らない。立ち上がって、廊下に出た。
寝室に入ると、セラフィーナが蝋燭の前に立っていた。三本のうち一本をすでに消している。残り二本の灯りの中で、白金の髪が揺れていた。
「座って」
敬語がない。俺は寝台の端に腰を下ろした。セラフィーナが近づいてくる。足音が素足だった。
指が伸びてきた。両手で、俺の目を覆った。掌が温かい。指先がこめかみに触れている。
「今夜は見なくていい」
出陣前夜と同じだった。あの時もセラフィーナは俺の目を封じた。利得の目で人を読むな、という意味だ。あの時は「計算しないで」と震えていた。今夜の声は震えていない。低くて、硬い。
視界が消えた。セラフィーナの掌の下で、指先の感触だけが残る。手を伸ばした。指先がセラフィーナの手首に触れた。脈が速い。声は硬いのに、身体は正直だった。
手首から指を辿って、掌の縁を撫でた。指が震えている。
「怖いのか」
「怖いに決まってる」
敬語の欠片もない。セラフィーナの声が近い。息が頬にかかる距離だった。
「明日あなたが落ちたら、私も終わる。エルヴィン家を敵に回して、夫を失って、何も残らない」
指が俺のこめかみから頬に降りてきた。爪の先が顎を辿る。見えない。見えないから、指先の一つ一つが鋭い。
「婚礼の夜を覚えてる?」
覚えている。あの夜は互いに計算が残っていた。政略の延長で、どこまで踏み込むか、どこで線を引くか、頭が動いていた。
「あの時のあなたは冷たかった。今もそう?」
俺は目を閉じたまま、セラフィーナの腰に手を回した。答えの代わりに。計算ではない。明日負けるかもしれないという恐怖が、計算を全部消していた。
二本目の蝋燭が消えた。誰が消したのかわからない。風か、それとも。
残り一本の灯りの中で、セラフィーナの呼吸が変わった。浅く、速くなっている。指が俺の目から離れた。代わりに両手が肩に降りてくる。布越しに爪が食い込んだ。
「勝って」
死なないで、ではなかった。あの出陣前夜とは違う言葉を、セラフィーナは選んだ。
最後の蝋燭が消えた。
暗闇の中で、衣擦れの音がした。布が擦れて、床に落ちる。セラフィーナの髪の匂いが近くなる。白檀と、その下にある汗の匂い。昼間の鎧を纏ったセラフィーナからは決して漂わない、生身の匂いだった。
指先が鎖骨を辿ってきた。爪の先が窪みに引っかかって、そこから下に降りる。喉仏を越え、胸元の布を押し開くように。見えない。何も見えない。利得の目も、翡翠の瞳も、互いの表情も。暗闇が全部奪って、指先の温度と呼吸の速さだけが世界になった。
腰に回した手を引き寄せた。セラフィーナの体が密着する。薄い布一枚の下にある体温が、腹から胸まで一度に伝わってくる。息を呑む音が聞こえた。俺のか、セラフィーナのか、暗闇では区別がつかない。
指を首筋に滑らせると、脈が指の腹に当たった。速い。鎖骨から肩へ、肩から背中へ。背骨を辿ると、セラフィーナの背筋が弓なりに反った。息が耳元でこぼれる。甘い声ではなかった。堪えきれなかった呼吸が漏れた、ただそれだけの音だった。
指先が内腿を辿ると、肌が湿っていた。セラフィーナの息が止まる。一拍。それから、膝が開いた。
手が俺の背中に回って、爪が直に食い込んだ。引き寄せられた。押し入るように、割って入るように、身体の境界が曖昧になる。セラフィーナの喉から声が漏れた。甘い声ではない。奥から絞り出されたような、短い呻きだった。
寝台が規則的に軋み始めた。暗闇の中で、二つの呼吸が重なっては離れ、また重なる。セラフィーナの爪が背中を走るたびに、熱い筋が残った。汗の匂いが濃くなる。シーツが湿って肌に張りつく。いやらしい匂いが、白檀に混じって部屋を満たしていく。
名前を呼ばれた。敬称がない。声が掠れている。もう一度。三度目は噛み殺すように途切れた。
セラフィーナの内側の熱に応えるように、身体の奥から衝動が駆け上がってきた。堪えきれなくなって腰が深く沈む。セラフィーナの背が寝台から浮いた。爪が肩に刺さる。声にならない声が暗闇を震わせて、俺の中の何かが突き抜けた。
しばらく動けなかった。セラフィーナの鼓動が掌越しに伝わってくる。速くて、強くて、嘘がつけない音だった。互いの汗が混じって、どちらの体温かわからなくなっていた。
朝の光で目が覚めた。
寝台の隣が空だった。衣擦れの音が部屋の奥から聞こえる。セラフィーナが姿見の前に立って髪を編んでいた。手は震えていない。白金の髪が完璧に整えられていく。昨夜素を見せた分だけ、鎧が一段硬い。
だが首筋に赤みが残っていた。高い襟で隠そうとして、指先が一瞬だけ止まる。
セラフィーナが振り返った。翡翠の瞳が俺を見ている。昨夜の目ではない。王都の目だ。だが奥に、昨夜を経た何かがある。微笑みの温度が違う。
「参りましょう」
一言だった。それだけで十分だった。




