密貿易の代償
ヴァイスフェルト伯爵への返書を書きかけていた。行動を迫る仕掛けの第一手。インクが乾く前に、伝令が飛び込んできた。臨時招集の封蝋を割って、中身を読んだ。筆を置いた指先が冷たい。
仕掛けるのは俺のはずだった。
十日後、王都。馬旅で痛む尻を固い椅子が思い出させた。貴族議会場は石と沈黙でできている。天井が高く、囁きすら反響する空間に百を超える貴族が座っている。冬の陽が高窓から差し込んで、石の床に白い四角を落としていた。
俺は議場の中央寄りの席についていた。隣にオットーがいる。帳簿を抱えるようにして座っている。いつもの几帳面な姿勢が、今日はどこか固い。
傍聴席に白金の髪が見えた。セラフィーナだ。扇子を閉じたまま膝の上に置いている。表情は社交の仮面そのもので、何も読めない。
議長が開会を告げた。咳払いが議場に響いて消えた。
立ち上がったのは、ヴァルトシュタイン家の当主だった。
五十を過ぎた痩身の男で、顔に感情がない。書類を一束、手に持っていた。厚い。
「グレンツェン辺境伯領において、帝国との禁制品の密貿易が行われていた件について、証拠を提出いたします」
議場が揺れた。揺れたのは空気だけで、声は出ない。だが百を超える視線が俺に集まるのがわかった。首の後ろが熱い。
書類が議場に回された。俺の手元にも一部が届く。開いた。
帳簿の写しだった。日付、品目、数量、取引先。見覚えのある数字が並んでいる。鉱石の卸値、冬季の特別価格、手数料の控除。俺が組んだ仕組みそのものだ。
隣でオットーの呼吸が止まった。帳簿外取引の明細が含まれている。品目の脇に、オットーが使う独特の略記号が並んでいた。筆跡まではわからないが、あの略記号を知っている者は限られる。
オットーの顔から血の気が引いていた。唇が白い。だが席を立たない。拳を膝の上で握って、前を向いている。
「証拠は十分であります」
ヴァルトシュタイン家当主の声には抑揚がなかった。台詞を読んでいるように正確で、個人的な怒りも軽蔑もない。駒だ。この男自身は何も感じていない。命じられた役割を、命じられた通りにこなしている。
では、誰が命じた。
答えは考えるまでもなかった。
ルドルフ・フォン・アイゼンシュタイン。
帝国宰相は議場にいない。王都にすらいないだろう。だが書類の一枚一枚から、あの男の影が滲んでいる。
背筋が冷えた。
密貿易を始めたのは半年前の夏だ。領地の財政が破綻しかけていた。正規の交易では追いつかない。帝国領との裏の取引を始めたのは俺の判断で、あの時点では最善手だと確信していた。財政を立て直し、兵を雇い、鉱山を拡張する原資になる。密貿易がなければ、第一波を退ける戦力すら整わなかった。
だがルドルフは、あの時点から知っていた。
知っていて、黙認した。
いや、違う。黙認ではない。泳がせた。
証拠を掴みながら、わざと放置した。俺が密貿易で力をつけ、帝国軍を退け、「英雄」の名声を得るまで待った。無名の辺境伯を潰すより、英雄を引きずり下ろす方が効果が大きい。議会の同情は英雄にこそ集まり、その英雄が犯罪者だと暴けば、同情は嫌悪に変わる。
秋の非公式交渉。ルドルフは「合理的な解決」を提示して、俺は蹴った。あの瞬間から、この弾劾は確定していたのだ。交渉を蹴らせることすら、計算のうちだった。蹴れば戦争になる。戦争に勝てば英雄になる。英雄になったところで密貿易を暴く。全てが一本の線で繋がっている。
あの男は、俺が密貿易を始めた瞬間に、この議場での結末を設計していた。
拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みで思考を繋ぎ止めた。
「弾劾裁判の開廷を求めます」
ヴァルトシュタイン家当主が淡々と言った。議長が議場を見回す。反対の声はない。味方であるはずの諸侯も沈黙していた。英雄を庇って自分の首を差し出す者はいない。
「弾劾裁判は七日後に開廷とする。被告人グレンツェン辺境伯ユリウスに対し、密貿易の罪状をもって審理を行う。有罪の場合、領地没収を含む処分が科される」
議長の声が石の天井に反響して、しばらく消えなかった。
領地没収。グレンツェンが消える。鉱山も、隘路も、兵も、あの土地で暮らす人々も。全てが俺の手から離れる。
オットーが隣で息を吐いた。短く、震えている。帳簿外取引が証拠に含まれている以上、連座は避けられない。俺の判断で始めたことが、こいつを巻き込んでいる。
傍聴席を見た。セラフィーナの表情は変わっていない。完璧な微笑みを貼りつけたまま、扇子を膝の上に置いている。だが指が白かった。骨が浮き出るほど強く握っている。
議場が散会を告げられた。席を立つ貴族たちの足音が石の床に響く。俺に目を合わせる者はいなかった。
オットーが立ち上がった。顔は青いままだったが、声は出た。
「帳簿を、整理します」
それだけ言って、先に歩き出した。背中が小さい。
俺は議場に残った。高窓からの光が床の白い四角を少しずつ動かしている。七日。たった七日で、全てが決まる。
セラフィーナがまだ傍聴席にいる。他の傍聴人が去った後も、扇子を握ったまま動かない。俺と目が合った。
微笑みが消えている。素の顔だ。翡翠の瞳が何かを言おうとして、言わなかった。扇子を開いて、閉じる。一度だけ。
それが何を意味するのか、今の俺にはわからなかった。




