逆選択
書状が増えていた。
カタリナの密書から三日。王都からの便が朝と夕に届くようになった。和平を求める声だった。帝国の提案を受け入れるべきだ、これ以上の戦は領民が耐えられない、冬の間に条件を詰めるべきだ。もっともな意見が、もっともな言葉で並んでいる。
問題は、全員がもっともに見えることだった。
執務室の机の上に、七通の書状が扇状に広がっている。セラフィーナが淹れた茶が湯気を失っていた。俺は書状を一通ずつ手に取り、差出人の顔を思い浮かべて、利得の目を起動した。
ヴァイスフェルト伯爵。先月の会談で握手を交わした男だ。あの時は明瞭に見えた。領土の安堵が最も重く、次に嫡男の婚姻、その奥に帝国への古い怨恨が澱んでいた。わかりやすい男だった。
書状の使者を通して覗く。使者は伯爵の側近で、主の意思を色濃く帯びている。利得の目は本人でなくとも、近しい者越しにぼんやりと映ることがある。
見えた。領土の安堵が浮かんでいる。嫡男の婚姻も。だが怨恨が消えていた。消えたのではない。靄がかかっている。白い霧のように優先順位の輪郭がぼやけて、何が上で何が下なのか判然としない。
次。ブランデンブルク辺境伯。この男は帝国との国境を直接接している。和平を望む理由がある。利得の目で見ると、領民の安全が強く浮かび、次に交易路の確保。そこまではいい。だがその奥が同じだった。靄。優先順位が平坦に均されたような、のっぺりとした景色。
三人目。四人目。
七人のうち三人に、同じ靄がかかっていた。
カタリナの仮面術とは違う。あれは技術だ。感情の表面を手で撫でて平らにするような、職人の仕事だった。こちらは感情そのものが鈍っている。喜びも怒りも恐れも、同じ濃さの灰色に沈んでいる。人間の感情がこんなふうに均一になることはない。
薬だ。
腹の底が冷えた。カタリナの密書が蘇る。内側から崩す。これか。帝国は諸侯を買収し、利得の目を欺く手段まで渡している。会談の数時間だけ感情を鈍らせれば、俺の目は何も拾えない。
残りの四人は靄がなかった。普通に見えた。だがそれすらも信じていいのかわからない。薬を飲んだ三人は靄でわかる。では飲んでいない四人は味方か。そうとは限らない。買収されていても薬を飲まなかった者がいるかもしれない。薬を飲んだが効果が切れた者がいるかもしれない。
見えることが、正しいことを意味しない。
書状を机に戻した。指先が白かった。握りすぎていた。
「セラフィーナ」
窓際に立っていた白金の髪が振り返った。扇子を閉じたまま、右手の指先で骨の先端を押さえている。
「七通のうち三通に違和感がある。会談で会った時と、書状の使者越しに見える印象が違う。本音が見えない」
セラフィーナが一歩近づいた。閉じた扇子を左手に持ち替えて、俺の斜め前に立つ。椅子には座らない。翡翠の瞳が机の上の七通を見下ろしていた。
「勘ですの?」
「勘というより、読めないことに慣れていない。残り四通は筋が通っている。だがそれも確かとは言えない」
「では判断の軸を変えるしかありませんわ」
声のトーンが半音下がった。扇子の先端を握る指に力が入っている。
「口で言うのは簡単だ」
「ええ。ですから一つだけ」
セラフィーナが俺の目を見た。微笑みはなかった。王都の社交で貼りつけていた仮面を外した、素の顔だった。
「痛みを伴う行動をした者だけを信じなさい」
窓の外で風が鳴っている。執務室の空気が冷たい。
「口約束は何も費やしません。書状も同じですわ。文字の上で忠誠を誓うことに、何の痛みもない。けれど兵を動かした者、財を差し出した者、自らの立場を危うくしてまで行動した者。その者の言葉だけが、信ずるに足ります」
扇子が微かに震えた。セラフィーナの指が白い。
俺は七通の書状に目を落とした。どれも美しい言葉が並んでいる。忠誠を誓い、和平を望み、同盟の結束を謳っている。だがこの中で、自分の身を削って行動した者が何人いるか。
一人もいない。まだ、言葉だけだ。
「時間がかかる」
「ええ」
「帝国は待ってくれない」
「ですから、急がせなさい」
セラフィーナが窓に歩いた。冬の光が白金の髪を冷たく照らしている。振り返らなかった。
「行動を迫る状況を作るのは、あなたの得意分野でしょう」
足音が遠ざかった。
一人になった執務室で、七通の書状を見つめた。利得の目は万能ではない。最初から知っていた。自分には使えない。カタリナには通じにくい。だが他者の優先順位を読む力だけは確かだと信じていた。
その確かさが崩れている。
書状の一通を手に取った。ヴァイスフェルト伯爵の筆跡。整った字で忠誠が綴られている。靄の向こうに何があるのか、今の俺には見えない。
だがセラフィーナの言葉は残った。痛みを伴う行動。口ではなく、身体で示すもの。その基準なら、利得の目がなくても判断できる。
問題は、それを引き出す仕掛けをどう作るかだ。
窓の外で鴉が鳴いた。冬の空は低く、灰色の雲が隘路の向こうまで続いていた。




