英雄と呼ばないで
五日が経った。
執務室の窓から入る風が冷たい。インクの乾きが早くなった。羊皮紙に書いた文字がすぐに固まる。窓枠の隙間から入った風が燭台の炎を揺らして、机の上の書類の端がめくれた。冬だ。
200で3,000を退けた英雄。そんな噂が領内を走り回っているらしい。酒場で俺の名前が出るたびに杯が空になると、オットーが教えてくれた。商人が隘路の話を尾鰭をつけて語り、辺境伯の若様は帝国兵を三人まとめて斬ったとか、そんな話になっているそうだ。三人どころか一人も斬っていない。俺がやったのは地図の上で指を動かしたことだけだ。
英雄か。
帳簿を開いた。戦費の精算が終わっていない。矢の補充、武具の修繕、負傷兵への手当、遺族への弔慰金。オットーの几帳面な筆跡が、一行ずつ項目を刻んでいる。弔慰金の欄だけ、数字が他より少し大きかった。筆圧が違う。
廊下で足音がした。軽くて速い。聞き覚えのある歩幅だった。
顔を上げた。扉の向こう、廊下の奥にリーゼロッテの背中が見えた。赤毛が揺れている。こちらに来る道だったはずだが、角を曲がって消えた。
五日間、一度も目が合わない。
声をかければいい。呼び止めて、何か言えばいい。だが何を言う。「感情を入れるな」と言った口で、何を。
腰の剣の柄に手が触れた。リーゼロッテが打った剣だ。革の巻きが馴染んでいる。あいつの手の温度が残っているはずはないのに。
帳簿に戻った。
物資の消費、兵の配置転換、糧食の在庫。数字が淡々と続く。ページを捲った手が止まった。
戦死者名簿だった。
フリッツ・ヴェーバー。二十一歳の槍兵で、第三小隊に所属していた。
オットーの弟分だ。帳簿を届けに来るたびに横にいた、そばかすの多い若い兵。オットーが数字を読み上げると横で頷いていた。計算が合っているか確かめていたわけではない。ただ隣にいたかっただけだろう。先月、鍛冶場でリーゼロッテに槍の穂先を研いでもらった時、礼を言おうとして噛んで赤くなっていた。
この名前を、オットーが自分の筆で書いたのか。
物資の消費量と糧食の在庫の間に、死んだ人間の名前が挟まっている。帳簿とはそういうものだ。戦争を数字で管理するとは、こういうことだ。俺が地図の上で指を動かした結果が、ここにある。
帳簿を持ってきた時、オットーの声はいつもより低かった。「フリッツの分も入っています」とだけ言って、出ていく。目を伏せる一瞬があった。帳簿を置く手の力が、ほんの少しだけ強い。
扉が開いた。
ヘルムートだった。左肩を右手で押さえて入ってきた。腕組みができないから、片手で扉を押して、片手で肩を庇う。不便そうだが文句は言わない。
「巡回の報告だ。異常なし」
「ああ」
「兵の士気は保っている。だが冬だ。長くはもたん」
「わかってる」
ヘルムートが窓際に立った。白髪が光で銀に見える。片目の老兵は外を見ていたが、何かを見ているわけではなさそうだった。
沈黙が長かった。窓の外で鴉が鳴いた。
「あの娘と話したか?」
リーゼロッテのことだ。
「いや」
「五日も口を利かんのか?」
「向こうが避けてる」
ヘルムートが振り返った。片目がまっすぐこちらを向いている。
「あの娘の気持ちがわからんなら、お前はまだ半人前だ」
反論が出なかった。利得の目を使えば、相手の望みが透けて見える。だがリーゼロッテに向けたところで、今の俺には読める気がしない。読めたとして、何ができる。前世の三十四年間と合わせて、女の気持ちがわかったことなど一度もない。
ヘルムートは何も付け加えずに出ていった。片手で扉を閉める音だけが残った。
日が傾いていた。帳簿の上に影が伸びて、フリッツの名前が暗がりに沈んだ。蝋燭を灯して、ページを閉じた。机の上に帳簿と書状が積み重なっている。勝利の後始末は、戦争そのものよりも地味で、重い。
夕刻、伝令が密書を持ってきた。
蝋印を割った。カタリナの筆跡だ。整った字が並んでいる。
『帝国の第二波は来ません。ルドルフは王都に別の手を打っています。軍では崩せないと判断したのでしょう。内側から崩すつもりよ』
軍事ではなく、政治で来る。剣と兵ではなく、密約と裏切りで。
密書の末尾に、本文と違う筆圧で一言だけ追記されていた。
『気をつけて』
カタリナの字は崩れていなかった。だがこの一言だけ、ほんのわずかに右に傾いていた。急いで書き足したのか。それとも、迷った末に書いたのか。
紙を置いた。窓の外で風が鳴っている。隘路を吹き抜けた時よりも静かで、長い風だった。
200で3,000を退けた英雄。酒場で杯を掲げてくれる人々は、次の戦いが目に見えない場所で始まることを知らない。
俺も、まだ見えていない。




