見えない
死ぬかと思った。
挟撃を受けた時、左翼が崩れかけた。帝国軍の騎兵が正面から突っ込んできて、同時に右から歩兵の一隊が回り込んでいた。リーゼロッテの側面攻撃が来ていれば、あの右の歩兵は存在しなかったはずだ。
来なかった。
ヘルムートが前に出た。
白髪が返り血で赤黒く染まっていた。片目の老兵が、盾を構えて帝国兵の騎槍を受け止め、弾き、踏み込んで馬上の兵を引きずり下ろした。五十五の老体がやる動きではなかった。だがヘルムートの身体は、三十年前の戦場の記憶で動いている。
「若様。下がれ」
短い声だった。振り返りもせず、二人目の帝国兵を斬り倒しながら言った。
下がれない。下がったら後ろの兵が崩れる。
「オットー、左翼の予備隊を前に出せ」
「もう出しました! あと三十人しか残っていません!」
オットーの声が裏返っていた。羊皮紙を抱えたままの腕に返り血がついている。この男は文官だ。戦場にいるべき人間ではない。だが兵站と伝令の管理を任せている以上、本陣にいるしかない。
ヘルムートが三人目を斬り倒した。古傷だらけの巨体が帝国兵の前に壁のように立ちはだかっている。盾で突きを受け、身体ごと押し返して、隙間に剣を差し込む。年齢を感じさせない動きだったが、息が荒い。白い息が返り血と混じって、冬の空気の中で赤く霞んでいた。
帝国軍の突撃が二度目に来た時、隣の陣地にいた同盟軍の一隊が横から帝国兵の隊列を突いた。崩れた。帝国軍が退いた。辛うじて持ちこたえた。
辛うじて、だ。
戦場が静まった後、死者を数えた。味方が四十三人。同盟軍も含めると六十人を超える。リーゼロッテの側面攻撃が予定通りなら、この半分で済んだ。
ヘルムートが戻ってきた。盾の表面が凹んでいた。鎧の左肩が砕けて、革紐で応急処置してある。白髪が顔に張りついていて、返り血と汗が混じった匂いがした。
「ヘルムート。怪我は」
「かすり傷だ」
嘘だ。左腕の動きが鈍い。だがこの男は、骨が折れていても「かすり傷」と言う。
「リーゼロッテの隊はどうなった」
「伝令が来ました」
オットーが息を切らしながら走ってきた。
「途中の村が帝国兵の略奪を受けていて、リーゼロッテ隊長が救援に向かったと。村の帝国兵は掃討したそうですが、側面攻撃の合流時刻に間に合わなかった、と」
村。
あの村だ。地図の上で、俺が指先で通り過ぎた村。「無視しろ」と命じた村。
腹の底が冷えた。
「呼べ」
「は?」
「リーゼロッテを呼べ。今すぐ」
◇
天幕に入った時、日が沈みかけていた。
蝋燭を一本だけ灯した。布越しに外の喧騒が聞こえる。負傷兵のうめき声と、水を運ぶ足音と、どこかで祈りの声がしていた。
リーゼロッテが天幕の入口に立った。
煤と血がついた顔。赤毛が乱れて額に張りついている。革鎧の左袖が裂けていて、二の腕の火傷痕が見えていた。腰の剣は、リーゼロッテの古い剣のほうだ。俺が打ってもらった剣ではなく、あいつが自分で打った最初の剣。
目はまっすぐこちらを見ていた。逸らさない。
「入れ」
リーゼロッテが天幕に入り、入口の布が落ちた。二人きりになった。
煤の下の肌が蒼白だった。血の気が引いたまま戻っていない。
「命令違反だ」
声が自分で思ったよりも硬かった。
リーゼロッテが唇を引き結んだ。
「お前のせいで何人死んだと思う」
「……数は聞いた」
声が低かった。震えてはいない。だが低い。
「四十三人。お前が命令通りに動いていれば、半分で済んだ」
「あの村人を見捨てろって言うのか」
声が上がった。リーゼロッテの琥珀の瞳に火が灯った。怒りだ。あたりまえの怒りだ。
「村が焼かれてた。女が引きずられてた。子供が泣いてた。それを見て通り過ぎろと、あんたはそう言ってるのか」
「言ってる」
即答した。
「戦争はゲームだ。感情を入れるな」
出た瞬間、自分の声が嫌だった。ルドルフと同じことを言っている。あの男の口から零れそうな台詞をそのまま吐いていた。吐き気がした。
だが間違ってはいない。側面攻撃が遅れたことで四十三人が死んだ。その事実は動かない。
リーゼロッテの目から光が消えた。
怒りではなかった。こいつの怒りは知っている。拳を握って歯を食いしばり、琥珀の瞳の奥が燃える。あの炎で何度も鉄を打ってきた女だ。
今は違う。火が消えていた。炉から炭を抜いた後みたいに、何も残っていない目だった。
「そうか」
声が平坦だった。
「あんたはそう言うんだな」
沈黙が落ちた。
天幕の外から風が入って、布の裾が揺れた。灯りが傾いて、リーゼロッテの髪に影が走った。煤の匂いの下に、汗と鉄の匂いがある。鍛冶場の匂いと同じだ。鉄を叩いて、汗をかいて、火の傍で生きてきた女の匂い。
こいつの顔を見るとイラつく。
何に対してイラついているのか、自分でもわからない。命令違反に対してか。四十三人の死に対してか。それとも、俺が切り捨てた村人をこいつが救ったことに対してか。
リーゼロッテが天幕を出ようとした。背中を向けて、入口の布に手をかけた。
腕を掴んでいた。
反射だった。計算ではない。考える前に手が伸びていた。リーゼロッテの左腕。火傷痕の上。革鎧の裂け目から覗いていた素肌を、掴んでいた。
リーゼロッテの肩が震えた。
振り返った。琥珀の瞳が近い。怒りなのか、別の何かなのか。涙ではなかった。リーゼロッテは泣かない。泣くくらいなら殴る女だ。
「離せ」
「……すまん」
手を離した。
離した手が所在なく宙に残った。握るものを失った手が、何をしていいかわからずに止まっている。
リーゼロッテが入口の布をめくった。外の夕闇が差し込んだ。
一瞬だけ振り返った。
口が開きかけて、閉じた。何か言おうとして、やめた。
布が落ちて、足音が遠ざかった。
◇
一人になった天幕の中で、しばらく動けなかった。
掴んだ手のひらに、体温が残っていた。火傷痕の肌は思ったよりも薄くて、下の筋肉が硬かった。鉄を打ち続けてきた腕だ。
いい女だ。
煤と血にまみれた顔で、目を逸らさずに立っていた。火傷痕のある腕で子供を抱えて走ったのだろう。俺には捨てられたものを、こいつは拾いに行った。
くそ。
「感情を入れるな、か」
自分で言って、自分で笑った。笑えなかった。
天幕の外で足音がした。規則正しい歩幅。灯りの中に、白金の髪が入ってきた。
セラフィーナだった。
後方で兵站の管理をしていたはずだ。報告のために来たのだろう。旅装のまま、埃をかぶった外套を羽織っている。扇子は持っていなかった。
「兵站の報告にまいりましたわ」
いつもの声。いつもの敬語。だが天幕の中の空気を一瞬で読んだらしく、入口のところで足を止めた。
「何がありましたの」
「リーゼロッテが命令違反をした」
「伺っておりますわ。村を救ったと」
「側面攻撃が遅れて、四十三人が死んだ」
セラフィーナが一歩入って、入口の布を下ろした。外の喧騒が遠くなる。
「あなた、何を言いましたの」
「感情を入れるなと言った」
セラフィーナの表情が動いた。
微笑みが消えた。消えた、というよりも、剥がれた。貼りついていたものが、音もなく落ちたように見えた。扇子を持たない手が、外套の裾を一度だけ握って離した。
一拍の沈黙があった。
「あなたが一番感情で動いているのに、あの子にそれを言うのは酷ですわ」
声が静かだった。冷たいのではない。温度を抑えている声だった。
「俺が一番感情で動いている」
「ええ」
セラフィーナが俺の正面に立った。蝋燭一本分の距離。翡翠の瞳がまっすぐこちらを見ている。王都モードの微笑みはどこにもなかった。
「私も、あの子も、カタリナ様も。あなたの感情に、振り回されているのよ」
語尾だけが震えた。「ですわ」ではなかった。外套の裾を握る指の関節が白くなっていた。
反論しようとした。何も出てこなかった。
セラフィーナが一歩退いた。
「兵站の報告は、明朝にいたしますわ」
声が元に戻っていた。完璧な形で。だが目の奥の温度は戻っていなかった。
天幕を出ていく前に、セラフィーナが足を止めた。振り返らなかった。
「あの子は、あなたのために剣を打ったのよ。あなたの命令で人を見捨てることだけは、できなかったのでしょう」
白金の髪が揺れて、布の向こうに消えた。
一人になった。
蝋燭の炎が揺れている。天幕の外から、負傷兵のうめきがまだ聞こえていた。
利得の目を起動した。
自分に向けた。
見えない。
わかっていた。自分には使えない。最初から知っている。だが今夜は、見えないことの意味が違って感じた。
俺は何がしたい。
モテたい。そうだ。モテたい。それは最初から変わっていない。前世の三十四年間で叶わなかった願望。異世界に来てもまだ消えない欲望。
でもそれだけか。
リーゼロッテの腕を掴んだのは、モテたいからか。セラフィーナの言葉に反論できなかったのは、モテたいからか。四十三人の死者を数えた時に腹の底が冷えたのは。
見えない。
自分の優先順位が見えない。一番上に何があるのか。二番目に何が来るのか。利得の目がないと、俺は自分のことすら分からない。
手のひらを見た。リーゼロッテの腕を掴んだ手。離した後、宙に残った手。
蝋燭の芯がぱちりと爆ぜた。影が揺れて、天幕の壁に自分の輪郭が大きく映った。
くそ。
見えない。




