あたしは計算で生きてない
あいつの横顔を見ていた。
本陣の天幕の前で、地図を指さしながら伝令に指示を出している。目が細くなっている。あの目だ。楽しそうに笑っていた顔が消えて、別の何かが出てくる時の目。冷たくて、遠くて、あたしの知らないものを見ている目。
泥だらけで遊んでたユリウスは、もういない。
鍛冶場に忍び込んできて、熱い鉄を触ろうとして親父にぶん殴られた男。あたしの火傷痕を見ても何も言わなかった男。あの頃のあいつは、もうどこにもいない。
でも今のあいつも、嫌いじゃない。
腰に剣が佩いてある。あたしが打った剣だ。鍛冶場で渡した時、ユリウスは柄を握って重さを確かめて、「いい剣だ」と言った。それだけだった。でもあの日から、ずっとあれを佩いている。
胸の奥が軋んだ。鉄を叩きすぎた日の腕みたいに、鈍く痛む。
「リーゼロッテ」
呼ばれた。振り返ると、こっちを見ていた。冷たい目のまま、でも声だけは少しだけ柔らかかった。
「側面攻撃の準備はいいか」
「とっくに終わってる」
「そうか」
地図に目を落とした。指先が東の丘を辿る。あたしの隊が通る道だ。
「森を抜けたら丘に沿って南に回れ。帝国軍の右翼が手薄になる。そこを突く」
「わかってる。三回目だ」
「念押しだ」
指が地図の上で止まった。森と丘の間に、小さな村の印がある。
「途中に村がある。無視しろ。立ち寄るな。予定通りに進め」
「……ああ」
あいつの目が上がって、あたしを見た。
「気をつけろ」
喉の奥に何かが詰まった。言いたいことが山ほどあった。帰ってこいとか、死ぬなとか、あたしが打った剣を折るなとか。
「あんたこそ」
出てきたのは、それだけだった。
あいつが背を向けて本陣に戻っていく。歩幅が広い。急いでいる。剣が腰で揺れるたびに、柄頭の鉄がかちりと鳴った。あたしが削り出した柄頭だ。握りやすいように、あの男の手に合わせて少し細く仕上げた。気づいているかどうかは知らない。多分気づいていない。
あの背中に、言えないことがまた一つ増えた。
◇
隊を率いて森に入った。
民兵が四十人と、正規兵が十人。あたしの指揮で動く五十人だ。足音を殺して枯葉を踏む。春の匂いはまだ遠くて、土の下が冷たい。木々の間から朝日が差し込んで、枝の影が地面にまだらに落ちていた。
隊長じゃない。あたしは鍛冶師だ。
でも戦が始まって、ユリウスが「お前に任せる」と言った時、断れなかった。断る理由がなかったからじゃない。あの男に頼まれたから断れなかっただけだ。
「隊長」
前を歩いていた民兵のゲルトが振り返った。猟師上がりの若い男で、森の歩き方だけはあたしより上手い。
「何だ」
「煙です。南東から」
足が止まった。
木々の隙間から、灰色の煙が見えた。一筋ではない。何本も立ち上っている。風に流されて、樹冠の上で横に広がっていた。
薪を燃やす煙ではなかった。もっと黒くて、もっと重い。あれは家が燃える煙だ。鍛冶場で何度も見た。木と藁と、人の暮らしが一度に燃える時の色だ。
「村の方角ですね」
ゲルトの声が硬くなっていた。
あたしは歩き続けた。予定通りに。命令通りに。
足音を殺して、枝を避けて、地図の通りに南に向かう。煙は左手に見えていて、風が変わるたびに焦げた匂いが鼻をつく。
森が途切れた。
丘の稜線に出た瞬間、眼下に村が見えた。
燃えていた。
家が四つ、炎に包まれている。井戸の傍で帝国兵が槍を構えていた。数は二十ほどだ。略奪部隊だろう。本隊とは別に動いている、たちの悪い連中だ。
村人が走り回っている。老人が倒れていた。動かない。子供を抱えた女が、燃える家の陰に隠れようとして帝国兵に見つかり、腕を掴まれていた。
悲鳴が聞こえた。
鉄を掴む音。布が裂ける音。女の声だった。
手が剣の柄を握っていた。ユリウスが打った剣ではない。あたしの古い剣だ。親父の鍛冶場で、一番最初に自分で打った剣。刃こぼれはしているが、まだ斬れる。
「隊長」
ゲルトが横に来た。顔が白い。
「あの村は」
「知ってる」
予定通りに進め。あいつはそう言った。村には立ち寄るな。側面攻撃のタイミングを合わせろ。それが正しい判断で、あたしが命令に従えば本隊は予定通りに帝国軍の右翼を潰せる。
わかってる。
あいつの計算はいつも正しい。この戦の前も、その前も。地図の上で指を動かして、数字を並べて、こうすれば勝てると言った通りになってきた。
でもな。
あたしは計算で生きてない。
「全員、ついてこい」
声が出ていた。考えるより先に、口が動いていた。
「隊長?」
「あの村に突っ込む。帝国兵は二十ほどだ。後ろから叩けば散らせる」
ゲルトが息を呑んだ。隣の民兵が顔を見合わせた。誰かが「命令は」と言いかけて、止まった。
あたしの顔を見たからだろう。
「側面攻撃は?」
「遅れる。だがあの村人を今見捨てたら、あたしは二度と鍛冶場に立てない」
手が震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、わからない。ただ、あの女の悲鳴がまだ耳の奥に残っていて、それを無視したまま丘を回り込むことが、あたしにはできなかった。
「隊長じゃない。鍛冶師だ。でも今は行く」
ゲルトが頷いた。
それだけで足が動いた。
◇
丘を駆け下りた。
風が顔を叩いた。草の匂いと焦げた匂いが混ざっている。足元の土が柔らかくて、何度か滑りかけた。民兵が後ろからついてくる靴音と、鎧が鳴る音が背中に聞こえていた。
帝国兵は気づくのが遅かった。
村の裏手から突っ込んだ。先頭はあたしだった。剣を両手で握り締めて振り下ろす。鍛冶場で鉄を叩く時と同じだ。腕の重さをそのまま刃に乗せる。最初の一人を斬った時、手首から肘まで鈍い衝撃が駆け上がった。熱い鉄を打つ時の反動とは違う。もっと嫌な手応えだった。だが止まれない。
帝国兵が振り返る。隊列を組もうとしたが、略奪で散らばっていたから遅い。ゲルトが二人目を仕留めて、民兵が残りに殺到した。
あたしは井戸の傍まで走った。子供を抱えた女を掴んでいた帝国兵が、こちらを見て槍を構える。突きが来た。半身でかわして、踏み込む。刃が鎧の隙間に入った。帝国兵が膝をついて倒れる。
女の腕を掴んで引き起こした。子供が泣いていた。
「裏の森に逃げろ。走れ」
女が頷いて走り出した。子供を抱えた背中が小さくなっていく。
燃える家の熱が顔を焼いた。火の粉が腕に落ちて、古い火傷痕の上でちりと鳴った。痛くはなかった。とっくに慣れている。
帝国兵が残り七人になった。一人が角笛を吹こうとして、ゲルトの矢が肩を貫いた。角笛が地面に落ちる。残りが逃げ始めた。
追わなかった。追う余裕がなかった。民兵にも負傷者が出ていた。ゲルトの左腕に槍傷がついていて、血が袖を染めている。
「大丈夫か」
「掠っただけです」
嘘つけ。鍛冶師の目で見ればわかる。刃が骨まで届いている。だが今は止血だけして先に進むしかない。
村人を集めた。生きている者を数えた。死んでいる者も数えた。老人が二人と、若い男が一人。動かなくなっていた。倒れた老人の手がまだ鍬を握っていた。畑仕事の途中で帝国兵が来たのだ。
火を消すために民兵を走らせた。井戸の水を運ばせて、燃え移りそうな家の壁を濡らした。あたしも水を運んだ。腕が濡れて、煤が流れた。
日が傾き始めていた。
ここにいる時間は、もうない。もうとっくにない。側面攻撃の合流時刻は、とうに過ぎている。
「隊長」
ゲルトが走ってきた。
「南の丘の向こうから、角笛が聞こえます」
あたしは立ち止まった。
耳を澄ませた。風の中に、低い角笛の音が混じっていた。一つではない。何本も重なって、遠くから響いてくる。
あたしの隊の角笛ではなかった。
本隊の角笛だ。
あの音は知っている。窮地を知らせる角笛だ。挟撃されている時の、救援を求める連吹きだ。
腹の底から血の気が引いた。指先が冷たくなって、剣の柄を握っている感覚が薄れた。
あたしが村に突っ込んだせいで、側面攻撃が遅れた。遅れたから、帝国軍の右翼が崩れなかった。崩れなかったから、本隊が正面と側面から挟まれている。
あいつの計算は正しかった。あたしがそれを壊した。
ゲルトの顔を見た。彼の顔にも、血の気がなかった。
救った村人たちが、あたしの背中の向こうで泣いている。
助けた命がある。壊した作戦がある。その二つが同時に存在していて、どちらも消せない。
さっき抱えた子供の重さが、まだ腕に残っていた。小さくて、軽かった。あの子を抱えて走った時、火傷痕のある腕を子供が握り返してきた。細い指だった。
その代わりに、今あいつの本隊が挟撃されている。
「ユリウス」
声が震えた。膝が笑いそうになるのを堪えて、剣の柄を握り直した。掌が汗で滑る。鍛冶場では絶対にやらない握り方だった。
角笛がまた鳴った。




