帳簿の数字は全部人の命です
帰還の翌朝から、城は戦支度に変わった。
倉庫から武具が引き出され、城壁の見張り台に弓が差し込まれた。兵糧を積んだ荷車が中庭に列を成し、馬の嘶きと荷降ろしの声が朝から響いている。
リーゼロッテの報告では、帝国軍は国境に二万以上を集めている。斥候の数が増えており、動き出すのは時間の問題だった。
二万。ルドルフの宣戦は口先だけではなかった。
◇
翌朝から、城は戦支度に変わった。
領内の農民に召集がかかり、倉庫から古い革鎧が引き出され、壁には新しい松明が差し込まれた。城門の前に荷車が列を成し、鍛冶場からは朝から晩まで槌音が響いた。
俺は居室の机に地図を広げ、オットーと向かい合っていた。
「帝国軍二万五千」
オットーが羊皮紙に数字を書き出しながら、声を抑えた。眼鏡の奥の目が地図の上を走っている。
「正規軍三万のうち二万五千を遠征に投入して、残り五千は帝都と主要拠点に張り付いています。つまり後方の余力がない。一発勝負のつもりです」
「一発で済ませるつもりなのか、一発で済ませなければならないのか。そこが大事だ」
オットーの書く手が止まった。
「どちらだと?」
「両方だ。ルドルフは合理的だ。国を空にする冒険は、勝てる計算があるからやっている。だが裏を返せば、長期戦は許されない」
地図の上に指を走らせた。国境線に沿って三本の矢印を描く。
「二万五千を三つに分けて侵攻する。北の森林地帯を抜ける道、中央の街道、南の河川沿い。三方面同時だ」
「王国軍がどこかに集結すれば、残り二方面が無防備に」
ヘルムートが壁際から声を出した。腕を組んだまま、地図を睨んでいる。
「分散して対応すれば、各個撃破される。古典的だが、厄介だ」
「その通りだ。で、王国軍はどれだけ集まる」
「全体で一万八千。だが統一指揮は取れない」
オットーの眉が寄った。
「各貴族がそれぞれの軍を出しますが、指揮系統がばらばらです。ヴァルトシュタイン家は独自に動くと宣言していますし、南部のリヒテン伯は援軍を出すかどうかすら返答していません」
「ヴァルトシュタインの独自行動は織り込み済みだ。問題はリヒテン伯だな」
ヘルムートが隻眼を地図の南に向けた。
「あの男は、勝ち馬に乗る。帝国が優勢と見れば、寝返りかねん」
「ああ。だから南が空いたまま戦うことも想定しておく」
俺は椅子の背にもたれた。
帝国側の侵攻を三軸で受ける。北はヴァルトシュタインが勝手に動く。南はリヒテン伯が日和見。中央は俺たちが受け持つしかない。だが俺が実際に動かせるのは、グレンツェンの兵三千と、エルヴィン家の千五百。合わせて四千五百だ。
「四千五百対二万五千」
オットーが数字を呟いて、唇を噛んだ。
「それは帝国の全兵力と、俺たちの手元だけの数字だ。帝国も三分するし、王国の他の連中も多少は戦う。問題は、『多少』がどこまで信用できるかだ」
兵站の帳簿を開いた。オットーが前夜から作り上げた物資表だった。食糧、矢弾、馬の飼い葉、薬品、予備の武具。数字が細かく並んでいる。一つ一つがインクで丁寧に記されていて、訂正の跡がほとんどなかった。
「兵站は俺が何とかします」
オットーの声が硬かった。
「食糧は二十日分を確保しました。矢弾は一人あたり三十本。それ以上の長期戦になると、補給線を維持できるかどうか」
「二十日か」
「はい。ただ、これはグレンツェン領の兵だけの計算です。他の諸侯の分まで面倒を見る余裕はありません」
「他の連中は自分で持ってくるさ。来るならな」
オットーが帳簿を抱え直した。インクに染まった指先が、わずかに震えていた。
「この帳簿の数字は、全部人の命です」
言い方が静かだった。いつもの早口ではなかった。
「食糧が一日足りなければ、飢えた兵が死にます。矢が十本足りなければ、手ぶらで突撃する奴が出ます。計算上は、の話ですけど」
「計算上は、だろ」
「ええ。計算上は」
オットーが眼鏡をずり上げた。指が震えたまま。
◇
午後、リーゼロッテの鍛冶場を訪ねた。
領内の武器の最終点検だ。新しい剣も含めて、出陣前に全部の刃を確認しなければならない。建前はそうだった。
鍛冶場は熱かった。冬の空気がどこかへ消えて、炉の赤い光が壁を照らしている。鉄を打つ音が規則的に響き、ふいごの息が低く唸り、焼けた鉄が水に沈む音がじゅうと鳴った。
リーゼロッテが鉄を叩いていた。
袖をまくったシャツの二の腕に煤がついている。汗が額から首筋に伝い、革のエプロンの紐を伝って落ちていく。火の粉が散る中、鉄を見つめる琥珀色の目だけが冷静だった。
いい腕だった。腕っぷしの意味でも、見た目の意味でも。鍛冶仕事で程よく筋がついた、だがゴツくはない腕。汗と炉の光でてらてら光っている。戦争の前だというのに、こういうものに目が行く自分が少し嫌で、だが嫌いきれない。
「見てないで、用があるなら言え」
振り向かずに言われた。槌を下ろす手は止まらない。
「武器の点検に来た」
「そこに並べてある。確認は自分でしろ」
壁際の台に、研ぎ直された剣が十数本並んでいた。だが俺の足は台ではなく、リーゼロッテのほうに向かっていた。
「お前の打った剣が一番信用できるからな。直接聞きたいことがある」
「……何だよ」
ようやく手を止めて振り返った。額に汗が浮いて、頬に煤の筋がついている。
「刃の持ちはどうだ。三日間の連戦に耐えられるか」
「当たり前だ。あたしが打った刃を舐めんな」
「いい腕だ」
「……武器の話か、あたしの腕の話か」
「両方」
リーゼロッテが顔を背けた。頬に血が上ったのが分かったが、煤と炉の赤光で誤魔化されていた。手近に置いてあった鑢を取り、もう研がなくていい刃を無意味に磨き始める。
その隙に近づいた。壁際の台に立てかけてあった剣の柄を確認するふりで、リーゼロッテの手元を覗き込む形になった。
近い。鉄の匂いと、汗の匂いが混ざっている。香水の欠片もない、鍛冶場の生き物みたいな匂いだった。
「近い」
「剣を見てる」
「嘘つけ」
琥珀色の目が至近距離でこっちを睨んだ。睫毛が長い。汗で少し束になっている。
利得の目が起動した。
一番上に忠誠。いつも通りだ。その下に、もう一つの色が浮いている。いつもは霞んで見えなかった色が、今日は少しだけ輪郭を持っていた。熱い色だった。炉の火に似ている。だが名前はまだ読めない。
リーゼロッテが手元の鑢を台に置いて、奥の棚から包みを取り出した。革で巻かれた細長い形。
「これ」
差し出された。
「あんたのために打った。……前から作ってたやつだ。戦の前に渡そうと思ってた」
革を解くと、剣が出てきた。
重さが違った。台に並んだ他の剣とは握りの感触からして別物だった。柄は俺の手に合わせて削られていて、刃は薄いのに芯がある。振ると空気が鳴った。
「……すごいな」
「そうだろ」
リーゼロッテの声に照れはなかった。自分の腕に対する純粋な自信だった。こういう顔が、この女は一番いい。
剣を受け取る時、手が触れた。
リーゼロッテの手は熱かった。炉の近くにいたからだ。それだけのことだ。だが指が離れなかった。一拍。二拍。リーゼロッテの琥珀色の目が俺の手元に落ちて、そこで止まっている。
「ユリウス様」
中庭からセラフィーナの声が聞こえた。
二人同時に手を引いた。リーゼロッテが鑢を取り直し、俺は剣を鞘に収める。動作が速すぎて、やましいと自分で証明しているようなものだった。
「何も言うなよ」
リーゼロッテが炉に向き直って言った。耳が赤い。煤では隠せない場所だ。
「何も言ってない」
「その顔がうるさい」
鍛冶場を出ると、冬の空気が肺に刺さった。炉の熱が一瞬で剥がされて、手のひらだけが妙に温かいまま残っていた。
セラフィーナが中庭で待っていた。翡翠の瞳が鍛冶場の入口と俺の顔を一往復して、何も言わなかった。何も言わないことが、一番怖かった。
◇
その夜、最初の報告が来た。
帝国軍先鋒一万が国境を越えた。北の森林地帯と中央の街道から、二方面同時に押し寄せている。南の河川沿いはまだ動いていないが、斥候は渡河の準備を確認していた。
居室に集まったのは、俺とオットーとヘルムートだった。セラフィーナは後方の兵站管理に回っている。リーゼロッテは民兵の編成を仕上げに行った。
「予想通りだ。三方面同時侵攻。北と中央が先行して、南は二日遅れで動く」
「各貴族への連絡は?」
オットーが帳簿を開いたまま聞いた。
「出した。だがヴァルトシュタインは独自に北に向かうと返答してきた。中央は俺たちが受け持つしかない」
ヘルムートが黙ったまま地図を見ていた。古傷だらけの指が、中央街道の要所を押さえる。
「若様。中央の隘路で止めるのが定石だ」
「ああ。だが隘路だけでは一万は止められない。足止めしている間に、南から回り込まれる」
「南はリヒテン伯が受け持つはずでは」
「はずだ。だがあの男はまだ返答をしていない。南が空いたまま戦えば、俺たちが挟撃される」
沈黙が落ちた。蝋燭の灯りが地図の上で揺れている。
伝令が駆け込んできたのは、その沈黙の最中だった。
「報告します! 北方面のベルント伯の一隊が、帝国軍と交戦して壊滅しました!」
空気が凍った。
「ベルント伯は独自に前進して帝国軍の先鋒を叩く構えでしたが、伏兵に遭い……三百名中、帰還したのは六十名です」
オットーの手が止まった。帳簿から顔を上げ、伝令を見て、それから俺を見た。
「独自に、前進した……」
「ベルント伯は俺の作戦を聞いていたはずだ。中央に集中して隘路で食い止める。北は遅滞戦闘で時間を稼ぐ。それだけ伝えた」
「伝わっていなかったのか、無視したのか」
「どちらにせよ、結果は同じだ」
ヘルムートの隻眼が俺に向いた。何も言わなかった。長い戦を潜り抜けてきた老兵の目が、戦争の理不尽を映していた。
「……ユリウス様」
オットーの声が小さかった。
「フリッツが、あの隊にいました」
フリッツ。名前を聞いて、顔が浮かんだ。オットーの下で帳簿の手伝いをしていた青年だ。二十歳。字が丁寧で計算が速く、オットーが「俺の弟分です」と嬉しそうに紹介した男だった。召集がかかった時、「文官ですが、剣くらい持てます」と言って隊列に加わった。
「帰還者の名簿にはありませんでした」
オットーがインクに染まった指で帳簿の端を押さえた。指が震えていた。
数字は嘘をつかない。三百名中、帰還六十名。残り二百四十名が死んだか行方不明だ。その中にフリッツがいる。帳簿を手伝っていた青年が、数字の側になった。
「……記録は、できました」
オットーがそう言って、帳簿を閉じた。
声は平坦だった。震えてはいなかった。だがインクに染まった指が帳簿の表紙を押さえる力だけが、白くなるまで強かった。
蝋燭の灯りが揺れた。窓の外で、領内の鍛冶場がまだ槌を打っている。明日も戦がある。明後日も。帳簿の数字は増え続けて、名前が減り続ける。
これが戦争だ。ルドルフが微笑みの奥で計算し、俺が利得の目で読み、オットーが帳簿に記録する。全部同じものだ。人の命を数字に変えて、数字で勝ちを拾う作業だ。
リーゼロッテが打ってくれた剣が、壁に立てかけてあった。柄に手を伸ばしかけて、やめた。今は触りたくなかった。あの剣を握る手は、まだ温かいほうがいい。




