見なくていい
議会の否決から三日後、ルドルフから面会の申し入れがあった。
場所は王宮の同じ小会議室だった。机と椅子が二脚。茶の用意はなかった。今回はルドルフが先に座っていた。
座っている。初めて見た。この男が椅子に腰を下ろしている姿は、立っている時よりも小さく見えるかと思ったが、そうではなかった。背筋がまっすぐで、手は膝の上に揃えられ、銀髪が肩に落ちている。安定していた。何かを決めた人間の姿勢だった。
「おかけください」
微笑みは健在だった。穏やかで、均一で、温度がない。だが議会の前と比べて、何かが薄くなっていた。表情の厚みというか、微笑みに込められていた説得力が一枚減っている。
俺は向かいの椅子に座った。利得の目が起動する。
靄の中で最も重い色は変わらない。白銀の秩序。その下に鉄灰色の版図拡大、さらに銀白の効率が続いている。だがそれらの下に、新しい色が滲んでいた。赤みを帯びた黒。議会の前にはなかった色だ。廊下で指が震えていた時に一瞬だけ浮いた、あの焼けた色に似ていた。
「お時間をいただき、感謝します」
「こちらこそ」
形式的な挨拶を交わしながら、俺は身構えていた。この男が座って待っていたこと。茶が用意されていないこと。面会の申し入れが三日後だったこと。全部が意味を持っている。
「単刀直入に申し上げます」
ルドルフの微笑みが、初めて自ら消えた。
あの議場の後の廊下で見た無表情とは違う。今度は意図的だった。微笑みを外すことで、言葉に重みを乗せている。
「あなたは面白い方だ。辺境伯」
「……ありがとうございます」
「いえ、お世辞ではありません。私の提案は合理的でした。帝国の資源を使い、あなたの領地の問題を解決し、両国の安定を担保する条約でした。数字の上では、拒否する理由がない」
ルドルフが膝の上で指を組んだ。
「にもかかわらず、あなたはそれを壊した。議会を動かし、貴族を動かし、私の条約案を二十六対八で否決に追い込んだ。合理的に解決できたものを」
声の温度が落ちた。均一なままだが、均一さの質が変わっていた。氷が溶ける前の、最も冷たい温度。
「感情で、壊した」
「感情ではありません」
俺の声が出た。思ったより硬かった。
「あなたの約束が信用できなかっただけです」
ルドルフの片眉がわずかに上がった。だが興味の信号ではなかった。確認の信号だった。予想通りの答えが返ってきたことへの。
「信用。ああ、そうですね。あなたは前回もそう仰った」
ルドルフが立ち上がった。椅子が静かに引かれ、窓に向かって歩く。背中を見せた。
「私は信用という概念を、否定はしません。予測可能性の一形態として、有用です。ですが、信用を理由に合理的な解決を拒否することは——」
ルドルフが振り返った。
「愚かです」
初めて聞いた。この男の口から、評価の言葉が出るのを。
「あなたの領地の民は、信用という言葉で飯が食えますか。帝国の交易路に乗らなかった鉱石で、冬を越せますか」
「それは」
「できません。合理的な条件を、感情で拒否した代償です」
ルドルフの声は怒っていなかった。怒りの温度はどこにもなかった。ただ事実を述べている。数字を読み上げるように、淡々と。
「私は、できる限りのことをしました」
窓の外を見るルドルフの横顔が、光の中にあった。銀髪の下の輪郭が鋭い。
「では、力で証明しましょう」
心臓が跳ねた。
「外交で解決できなかったものは、最終的に力が裁定します。これも合理的な帰結です」
ルドルフが俺に向き直った。微笑みが戻っていた。だが中身が違った。穏やかさの下に、決定の重さが乗っている。
「帝国は、王国との協調を諦めます」
声が均一だった。均一なまま、宣戦布告をしている。
「辺境伯。あなたの選択が正しかったかどうかは、戦場が証明するでしょう」
ルドルフが一礼した。完璧な所作だった。そのまま扉に向かい、靴音を響かせて出て行った。
残されたのは、空の椅子二脚と、置かれなかった茶の跡だった。
膝に力が入らなかった。立ち上がれない。戦争だ。二万五千の帝国軍が、国境に来る。俺の拒否が、この結果を招いた。合理的に正しかったのか。感情で動いたのか。もう、区別がつかなかった。
◇
宿に戻ると、カタリナの使いが待っていた。
密書は短かった。
『帝国軍二万五千、国境に集結開始。ルドルフ公は明日帰国。指が震えていたのは本当よ。あの方が怒った時は、必ず動く。すぐに。折れないでと言ったでしょう。折れなかったわね。でも、これからが本番よ』
折り畳んだ密書を懐に入れた。手が冷たかった。
密書の文面を脳裏で反芻した。カタリナはルドルフの反応を正確に予測していた。あの男が怒ったら動く。三日で動いた。議会の否決から面会の申し入れまで三日、面会の席で宣戦布告。迷いがない。
オットーが帳簿を持って現れた。
「ユリウス様。帝国軍の動員に関する報告が入っています」
「聞く」
「帝国正規軍三万のうち二万五千が動員されました。残り五千は帝都と主要拠点の治安維持です。二万五千は三つに分かれて侵攻する見込みです」
オットーの声は淡々としていた。だが帳簿を持つ手の関節が白い。
「我が国の動員可能兵力は」
「王国全体で一万二千。ただし統一指揮ができるかは——」
「できない。各貴族が自軍を勝手に動かす。いつものことだ」
俺は窓の外を見た。王都の屋根が夕日で赤く染まっている。
「グレンツェン領に戻る。明日の朝、出発する」
「セラフィーナ様にも」
「ああ。伝えてくれ」
◇
その夜、セラフィーナが部屋に来た。
旅支度の打ち合わせだと思った。セラフィーナの手には帳簿ではなく、革鞄の留め金が一つ。壊れたらしい。
「直していただけますか」
「俺は鍛冶屋じゃないぞ」
「革紐で縛ればいいんです。あなた、そういうの器用でしょう」
器用ではない。だが断る理由もなかった。
革鞄を受け取って、卓の上で留め金を調べた。セラフィーナが向かいの椅子に座る。蝋燭が三本。窓は閉まっている。
革紐を探している間、セラフィーナの気配が近くにあった。向かいの椅子で何かをしている。帳簿ではない。髪を解いていた。旅支度の一部なのか、王都の結い上げた髪を下ろしている。白金の髪が、肩から背中へ流れ落ちていく。
留め金を直し終えて顔を上げると、セラフィーナの支度が変わっていた。旅装の上着を脱いで、夜着に近い薄い上衣だけになっている。髪は解かれたまま。
「明日から戦ですわ」
敬語だった。距離を詰めながら敬語を使う。あの夜と同じだ。鎧を着たまま近づいてくる。
「ああ」
「グレンツェン領まで馬車で四日。その間に作戦を固めなければなりませんわね」
「そうだな」
「ですから、今夜は作戦の話をしません」
セラフィーナが立ち上がった。
椅子を回って、俺の横に来た。卓が二人の間にない。蝋燭が三本、部屋を黄色く照らしている。
利得の目が起動した。反射だった。
セラフィーナの優先順位が浮かぶ。だが最も重い色がまた靄の中にある。いつもの翡翠色の何かが見えるが、輪郭が掴めない。ただ、靄の色が前より温かかった。冷たい翡翠ではなく、黄みがかった翡翠。
「見なくていい」
セラフィーナの手が、俺の目を覆った。
指が冷たかった。視界が塞がれた。利得の目が消える。靄も色も何も見えない。暗闇の中に、セラフィーナの指先の温度だけがある。
「今夜は」
セラフィーナの声が近い。耳のすぐ横から聞こえた。息が頬に当たる。
「計算しないで」
声が震えていた。仮面を脱ぐことへの恐怖と、脱ぎたいという欲求が、声の中で押し合っている。
俺は目を閉じた。セラフィーナの手の下で、瞼を落とした。
見えない状態で、右手を上げた。指先が何かに触れた。頬だった。セラフィーナの頬を、指の腹で辿る。頬骨の線。耳の手前のくぼみ。そこに、わずかな湿りがあった。
涙の跡だった。
「泣いてるのか」
「泣いていません」
嘘だった。指先が知っている。涙は乾きかけていたが、痕はまだ残っていた。いつから泣いていたのか。部屋に来る前か。留め金を持ってきた時にはもう、泣いた後だったのか。
「セラフィーナ」
「何ですか」
敬語。まだ鎧が残っている。
「いい女だな」
ひどい台詞だった。こういう時に言うべき言葉はもっと別にあるはずだ。だが俺にはこれしか出てこなかった。前世三十四年間モテなかった男の語彙は、こういう時に致命的に足りない。
セラフィーナの手が、俺の目の上で少しだけ緩んだ。
「最低な褒め方ですわ」
「知ってる」
「……知ってて言うんですのね」
敬語が崩れかけた。「ですのね」がおかしな形をしている。整えようとして、整えきれなかった。
蝋燭が一本消えた。部屋が少し暗くなる。
セラフィーナの手が目から離れた。代わりに、両手が俺の襟元を掴んだ。力が強い。小柄な体の、どこにこれだけの力があるのか。
「死なないでください」
敬語だった。だが声が裸だった。丁寧語の形をした、剥き出しの声。
「戦争に行って、帰ってきてください。約束してください」
「約束する」
「嘘でもいいです」
「嘘じゃない」
蝋燭が二本目、消えた。芯が短くなって、灯りが落ちた。残り一本。
セラフィーナの指が、襟元から首筋に移った。冷えた指先が肌に触れ、俺の体温を吸い取るように留まっている。じわりと指の形が温まっていく。
「……ずるい」
二度目のその言葉。あの夜と同じ声だった。だが今夜のほうが、深い場所から出ている。
三本目の蝋燭が消える前に、セラフィーナの敬語が全部消えた。
◇
窓の外が白んでいた。
冬の朝は早い。空の端が灰色から薄い青に変わりかけている。鳥の声はまだない。王都の石畳を掃く箒の音だけが、遠くから聞こえていた。
セラフィーナが寝台の端に座って、髪を編んでいた。
髪を三つに分けて、指先で丁寧に編み込んでいる。だが手が震えていた。いつもなら一分で終わる作業が、何度もやり直されている。
俺は何も言わずに見ていた。
セラフィーナが振り返った。緑の瞳が俺を見て、一瞬だけ目を逸らし、それから戻した。
「死なないで」
それだけだった。敬語もない。微笑みもない。声に仮面の欠片もなかった。
「ああ」
それだけ返した。
◇
王都を発ったのは、朝霧が残る時間だった。
馬車にはセラフィーナと俺、それにオットーが乗っている。護衛の騎馬が六人。グレンツェン領まで四日の行程だ。
馬車の中で、セラフィーナの敬語は完璧に戻っていた。
「グレンツェン領への帰還後、まず軍備の確認が必要ですわ。ヘルムート殿の守備隊と、リーゼロッテ殿の民兵が即応できる状態にあるか」
「ああ。オットー、兵站の試算は」
「はい。現在の備蓄で三ヶ月は持ちますが、動員が増えれば二ヶ月に縮まります」
オットーの声は落ち着いている。帳簿を膝の上で開き、数字を読み上げている。
セラフィーナが帝国軍の配置について質問し、俺が答え、オットーが数字で補足する。三人の役割が噛み合った会話だった。
だが時々、セラフィーナの指先が俺の袖に触れていた。馬車が揺れた拍子に、という体裁だった。だが揺れていない時にも、指先が袖の布を掠めている。無意識なのか、意識的なのか。
オットーは気づいていないふりをしていた。帳簿から目を上げない。だがインク壺に手を伸ばす動作が、いつもより丁寧だった。こぼさないように。馬車が揺れても。
四日目の朝、グレンツェン領の門が見えた。
冬の朝日が城壁を照らしている。領地の旗が風になびいていた。半年ぶりの帰還だった。
門の前に、人影が立っていた。
リーゼロッテだった。
革の胸当てに剣を佩いた姿で、門の横に立って待っている。腕を組み、壁に背を預けて、こちらを見ている。
馬車が止まった。俺が降りると、リーゼロッテが壁から背を離して一歩前に出た。
「遅い」
「すまん」
「帝国が攻めてくるって聞いた。本当か」
「本当だ」
リーゼロッテの目が細くなった。怒りではない。覚悟の表情だった。
その視線が、俺の後ろに移った。馬車から降りるセラフィーナを見て、一歩引いた。白金の長い髪と、完璧な微笑み。王都から帰った女がまとっている空気を、リーゼロッテは一瞬で感じ取ったようだった。
セラフィーナがリーゼロッテを見て、微笑みの角度を変えた。旅で崩れていた王都モードの鎧が、一瞬で組み上がった。初対面の時とは違う。あの時は値踏みだった。今は、領分の確認だ。
リーゼロッテの肩がわずかに下がった。組んでいた腕が解けて、片手が剣の柄にかかった。戦う相手ではないと分かっていて、それでも手が武器に行く。鍛冶師の癖ではない。こいつの不安は、いつも手に出る。
俺を見た。何か言おうとして、口を開いて、閉じた。一歩前に出かけて、止まった。
三人の間で、冬の風だけが通り抜けていった。
帝国軍二万五千が、国境に向かっている。
戦争が始まる。




