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転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


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正しいことと気持ちが悪いこと

 深夜の書斎で、俺とセラフィーナは地図に向かっていた。


 インク壺の蓋が開いたままになっている。窓は閉め切ってある。寒さのためではない。声が漏れるのを防ぐためだ。王都の宿の書斎は、壁が薄い。


「ヴァルトシュタイン家の議席を崩しますわ」


 セラフィーナが地図の上に指を置いた。貴族議会の勢力図を描き起こした羊皮紙で、議員の名前と派閥が色分けされている。


「帝国編入を議会に諮った場合、ルドルフが頼るのはヴァルトシュタイン侯爵の票田です。侯爵は自身の五票に加えて、姻戚関係で繋がる四家の票を実質的に動かせる。合計九票」


「議会の定数は三十四。過半数は十八だ。反帝国の固定票が十五、ヴァルトシュタインの固定が五。浮動票が十四」


「ですから、ヴァルトシュタインの九票が帝国側に回ると、浮動票からあと九つ取るだけで過半数に届きますわ。十四のうちの九票なら、取れる数字です」


 俺は椅子の背に体を預けた。セラフィーナの分析は正確だった。問題は、その九票をどう崩すかだ。


「ヴァルトシュタインが一番気にしているのは家名の保全だ。その次が帝国との既得権益。帝国に逆らう理由がない男に、直接働きかけても無駄だろう」


「侯爵ご本人を動かす必要はありませんわ」


 セラフィーナの扇子が、地図の上で四つの名前を叩いた。


「姻戚四家です。ここが自発的にヴァルトシュタインから離れる状況を作ればいい」


 自発的に。その言葉に、前世の記憶が反応した。メカニズムデザイン。強制も嘘もなく、選択肢の並べ方だけを変えることで、全員が「自分で選んだ」と思いながら望ましい結果に辿り着く仕組みだ。


「続けてくれ」


「姻戚四家のうち、ブレンナー男爵とライヒェンバッハ子爵は、実はヴァルトシュタインに貸しがあるのではなく、借りがありますの」


 セラフィーナが手元の帳簿を開いた。几帳面な筆跡で、各家の経済関係が整理されている。


「ヴァルトシュタイン家が斡旋した帝国との穀物取引で、この二家は利益を得ています。ですが、その取引の仲介手数料が帝国側の商会に流れている。表向きは合法ですが、王国の関税を迂回した形になっていますわ」


「それを暴露するのか?」


「暴露すれば終わりますが、それでは芸がありません」


 セラフィーナの声に、珍しく熱が混じった。指先が帳簿の数字をなぞりながら、組み立てている。


「暴露するぞ、と脅して従わせるのは下策です。脅しは恨みを買いますし、後で裏切られる。そうではなくて、この二家が自分の判断で帝国から離れたほうが得だと気づく状況を作るんです」


 胸の奥で、何かが弾けた。


 こいつは理解している。脅しで人を動かすのと、相手の判断そのものを設計するのは、結果が同じに見えても構造がまるで違う。


「ブレンナーは長男の留学先を帝国から王国の学院に変えたがっています。ライヒェンバッハは領地の水利権で隣家と揉めている。どちらも帝国との取引とは無関係の悩みですが、ここを解決してやれば——」


「帝国との繋がりに固執する理由が消える」


「ええ。そして、関税迂回の件は暴露せず、ただ二家に直接伝える。あなたたちの取引の構造は把握している、と。暴露しないが、自分たちで計算してくださいと」


 俺は笑った。口の端だけが上がる笑い方を、自分で意識した。


「二家は勝手に計算する。帝国との取引を続けるリスクと、王国側に戻るメリットを天秤にかけて、自分で判断する」


「はい。強制も脅迫もしていません。情報を渡しただけですわ」


 完璧だった。


 四家がそれぞれの利害で動いた結果、帝国との繋がりが薄れる。ヴァルトシュタインの票田が二つ崩れれば、残りの二家も追随する。九票が五票に減り、五票では浮動票を引き留められない。


「残り二家はどうする。ヴェーバーとシュトルムだ」


「ヴェーバー家はカタリナ様の情報網で押さえています。帝国から直接の贈賄証拠がある。これは——」


 セラフィーナの声が一瞬だけ止まった。扇子の先が、自分の唇に触れかけて戻る。


「カタリナ様から直接、いただいた情報ですわ」


 その間合いに、何かが挟まっていた。カタリナの名前を出す時のセラフィーナは、声の温度を落とす。だが嫉妬ではない。もっと複雑な何かだ。


「シュトルム家は、先代がヴァルトシュタインと折り合いが悪かった記録が残っています。当代は姻戚の義理で従っていますが、積極的ではない。一度崩れ始めれば、最初に離れる家ですわ」


 俺は地図を見下ろした。セラフィーナの計画には四つの段階がある。ブレンナーとライヒェンバッハが利害で動き、ヴェーバーが贈賄の暴露を恐れて離脱し、シュトルムが義理を切る。四家が離れたヴァルトシュタインは裸の五票になり、議会での影響力を失う。


「議会の票を読もう」


 俺は利得の目で見た各議員の関心を、記憶から引き出した。この三日間で十二人と会い、それぞれの優先事項を確認してある。


「浮動票十四のうち、領地の安全を最も重く見ているのが五人。こいつらは帝国の脅威が具体的になれば反帝国に回る。経済的利益が一番上に来るのが四人。帝国との取引を失うことを恐れている。残り五人は家名や王との関係で動く。大勢に従う連中だ」


「経済的利益の六人が鍵ですわね」


「ああ。こいつらに、帝国に降った場合の経済的損失を見せる。ルドルフの条件にある五年の移行期間が罠だという証拠を揃える」


「それなら、グレンツェン領への提案条件がそのまま使えますわ」


 セラフィーナが身を乗り出した。地図の上に影が落ちて、白金の髪が羊皮紙の上に散った。卓の上のインク壺が光を拾って、髪の一筋一筋を照らしている。


 視線が落ちた。髪の先が、地図に描かれた国境線の上で揺れていた。


「見ていないで、次の手を考えなさい」


 気づいている。当然だ。セラフィーナは俺の視線の動きを読む。


「すまん。お前と策を練っている時が一番頭が回る」


「褒めても何も出ませんわ」


「褒めてない。事実を言っている。もう一つの意味でも」


 もう一つの意味。言ってから、引っ込めなかった。


 セラフィーナの扇子が、俺の手の甲を叩いた。


「不謹慎ですわ」


 軽い叩き方だった。痛くもない。だが扇子の骨が手の甲に触れたまま、離れなかった。一拍。インク壺の影が揺れるほどの間。


 俺の手と、セラフィーナの扇子と、その間にある地図。策を練る二人の距離が、いつの間にか地図一枚分しかなくなっていた。


 セラフィーナが扇子を引いた。何事もなかったように地図に目を戻す。だが翡翠の瞳の縁が、わずかに赤い。


「議会の投票日まで五日です。まずブレンナーとライヒェンバッハに接触しますわ。明日の午前中に」


「俺はカタリナ経由でヴェーバーの証拠を押さえる」


「オットー殿には、各家への書簡の準備を」


「ああ。明日の朝一で伝える」


 インク壺の中身が乾きかけていた。蓋を開けたまま何刻も経っている。書斎の空気が少しだけ重くなった。


 セラフィーナが立ち上がり、散らばった帳簿を整え始めた。俺も羊皮紙を巻く。指先が擦れ違った時、どちらも手を引かなかった。偶然だったのか、そうでなかったのか。どちらでもよかった。


「寝るか」


「ええ。明日は早いですから」


 扉に向かうセラフィーナの背中を見ながら、俺は思った。


 この女と策を練っている時間は、前世で論文を書いていた時と同じ種類の興奮がある。脳が回り、一つ一つの仕掛けが繋がり、全体像が立ち上がってくる快感だ。だがあの頃と決定的に違うのは、隣に白金の髪があることだった。



    ◇



 五日後、貴族議会の議場は満席だった。


 三十四の議席のうち、空席はない。傍聴席にも人が詰まっている。議題は帝国宰相ルドルフ・フォン・アイゼンシュタインが提出した「王国・帝国間の協調条約案」。名目は協調だが、中身はグレンツェン領を皮切りにした段階的な帝国編入だ。


 俺は傍聴席の隅にいた。議場に入る権利はあるが、投票権はない。辺境伯は議会の構成員ではなく、あくまで諮問の対象だった。


 セラフィーナが隣に座っている。扇子を閉じたまま膝の上に置き、微動だにしない。


 議場の正面にルドルフが立っていた。


 帝国の使節として、議場での発言権を与えられている。銀髪が議場の窓からの光で白く浮いて、穏やかな微笑みを浮かべたまま、条約案の説明を終えたところだった。


「本条約は、両国の長期的な安定と繁栄を目的としたものです。ご検討いただければ幸いです」


 声は均一で、温度がなかった。丁寧な言葉の裏に、何の感情も乗っていない。


 議長が投票を宣言した。


 俺は利得の目で議場を見渡した。三十四人の関心事が、ぼんやりと浮かんでいる。遠くて細部は読めないが、大きな色の傾向はわかる。反帝国の色が多い。五日前よりも、明らかに増えている。


 投票が始まった。


 固定票が先に入る。反帝国派が十五、ヴァルトシュタイン系が五で、二十票。ここまでは予想通りだった。


 浮動票の一人目が立った。ブレンナー男爵。痩せた中年の男が、周囲の顔色を窺ってから口を開いた。


「反対」


 俺の隣で、セラフィーナの扇子が微かに動いた。指先が骨を撫でている。だが表情は変わらない。


 二人目、ライヒェンバッハ子爵。


「反対」


 三人目、ヴェーバー伯爵。額に汗を浮かべたまま、声が小さかった。


「……反対」


 四人目、シュトルム男爵。立ち上がるのが遅かった。ヴァルトシュタイン侯爵の方を一度見て、目を逸らしてから。


「反対」


 ヴァルトシュタインの顔が、初めて歪んだ。


 票が進むにつれて、反帝国の流れが加速した。浮動票は雪崩のように動く。一人が反対すれば、隣も反対する。自分だけ賛成に回るリスクを取れない。


 最終結果、賛成八、反対二十六。


 ルドルフの条約案は否決された。


 議場が騒めく中で、ルドルフは微笑みを保ったまま立ち上がった。


「ご判断に感謝します」


 頭を下げる動作は完璧だった。微笑みも崩れない。


 だが俺の利得の目が、靄の中のわずかな揺れを拾った。最も重い白銀が硬くなっていた。この男が積み上げてきた秩序が、今、拒否された。


 ルドルフが議場を出た。


 俺は立ち上がり、廊下を追った。理由は、自分でもよくわからなかった。勝利の確認なのか、あの男の反応を見たかったのか。


 廊下の奥で、ルドルフの背中が見えた。


 窓際に立っている。窓の外の庭を見ている。いや、庭ではない。窓辺に置かれた鉢植えだ。小さな薬草が一株だけ植えられている。


 ルドルフの指が、薬草の葉に触れていた。


 震えていた。


 微笑みは保たれている。背筋もまっすぐだ。声も出していない。だが葉に触れている指先だけが、微かに震えていた。


 俺は足を止めた。五歩手前。声をかけるには遠く、黙って見るには近い距離。


 ルドルフが振り返った。


 微笑みが戻っていた。指の震えは止まっている。


「辺境伯。お見事でした」


「……いや」


 何と返すべきか、わからなかった。


「私の提案は、合理的でした。今もそう確信しています」


 声に温度がない。だが「合理的でした」の過去形が、何かを語っていた。


「では」


 ルドルフが背を向け、廊下を歩いていった。規則正しい足音が遠ざかる。


 窓辺の薬草の葉だけが、まだ揺れていた。



    ◇



 宿に戻ると、オットーが帳簿を抱えて待っていた。


「おかえりなさいませ。議会の結果は聞いております」


 オットーの声は落ち着いていた。だが帳簿を持つ手が、いつもより力んでいる。


「反対二十六、賛成八。圧倒的でしたね」


「ああ」


「各家への働きかけが功を奏しました。ブレンナー男爵の長男の学院入学は、明日にも正式な推薦状が出ます。ライヒェンバッハ子爵の水利権の件は、王室の調停官が動くことで——」


「オットー」


「はい」


 俺は椅子に座った。オットーが帳簿を卓に置いて、向かいに立つ。


「何か、気になることがあるか」


 オットーの指がインク壺に伸びて、止まった。唇が一度開きかけて、閉じた。


「……一つだけ。一つだけ、よろしいですか」


「言え」


「これは——」


 声が詰まった。オットーの喉が動いて、眼鏡のずれを直す手が震えている。


「操作、ではないですか」


 声が低かった。非難ではない。だが、確認と呼ぶには重すぎる響きだった。


「ブレンナー男爵もライヒェンバッハ子爵も、自分で判断して投票したように見えます。ですが実際には、ユリウス様が情報を与え、選択肢を設計し、彼らが特定の結論に至るよう仕向けた。全員が自分の意思で動いたと思っている。でも、その意思を設計したのは、あなたです」


 窓を閉めているのに、どこからか隙間風が入っている。卓の上の羊皮紙の端が揺れた。


「各人が自分の利害を計算した結果だ」


「はい。それは理解しています」


 オットーがインク壺の蓋を閉じた。


「ですが、計算する方向を決めたのは、あなたです。それは自由な判断と呼べるのでしょうか」


 俺は黙った。


 前世なら答えられた。メカニズムデザインの要諦は、個人の合理性を社会的最適に導くことだ。個人の自由を尊重しながら、全体の利益を最大化する。経済学の教科書に書いてある通りの美しい仕組みだ。


 だが目の前のオットーは、教科書の中にはいない。インクで汚れた指先で帳簿を抱え、俺が設計した仕組みの中で帳簿をつけている男だ。


「全員にとって最善になる結果を設計した。誰も損をしていない」


「はい」


「ブレンナーの長男は学院に入れる。ライヒェンバッハの水利権は解決する。王国は帝国の侵食を防いだ。全員が得をしている」


「はい。ですから、正しいのだと思います」


 オットーの目がまっすぐだった。


「ただ、正しいことと、気持ちが悪いことは、両立するのだと知りました」


 帳簿がオットーの腕の中で鳴った。革の表紙が軋む音だった。


 俺は答えなかった。答えの代わりに、窓の外を見た。王都の夜が暗い。


 あの廊下で見たルドルフの指の震えが、まだ目の裏に残っていた。あの男の指が震えた。あれが感情なら、次に来るのは理性だ。感情を理性で上書きする男だ。否決されたことへの対処は、合理的に、正確に、速やかに行われる。


 帝国宰相の指先が震えた。


 その先に来るものが何か、俺にはまだ見えなかった。


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