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転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


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折れないで

 カタリナの屋敷に着いた時には、王都の石畳が夜露で濡れていた。


 門番に名を告げると、待っていたように通された。案内されたのは二階の応接間ではなく、その奥の小さな書庫だった。壁一面に革表紙が並び、暖炉には火が入っている。蝋燭は二本だけ。部屋の隅まで明るくしない灯りだった。


 カタリナは窓際に立っていた。


 黒いドレスに蛇の首飾り。だが今夜は香水が薄い。あの重い香りが半分ほどしかなくて、代わりに暖炉の薪の匂いが勝っていた。


「来てくださると思ったわ」


 振り返った笑みはいつもの形だったが、精度が甘い。口の端は上がっているのに、目元が追いついていなかった。


「呼び出したのはお前だろ」


「ええ。だって今夜のあなた、放っておくと変な決断をしそうですもの」


 図星で腹が立った。利得の目が起動する。


 靄の表面には、いつもの薄い金色があった。だがその下で灰色が近い。押し込めきれていない。


「ルドルフに会ったのね」


「どこまで知ってる」


「王宮の廊下は、壁まで耳があるのよ」


 カタリナが卓の上の酒瓶に手を伸ばした。赤ではなく、透明な酒だった。小さな杯に注ぐと、香りが立たない。酔うための酒だ。


「飲む?」


「今日はやめておく」


「賢明ね。私も一杯だけにしておくわ」


 そう言って口をつけたが、喉を鳴らす音が小さかった。味わっていない。


「それで」


 俺は椅子に座らずに言った。


「何の用だ」


「あなたが、あの方に何を読まれたか確認したかったの」


 蝋燭の火が揺れた。窓の隙間から入る夜気が首元を撫でる。


「感情で動く男だと、読まれた」


 言葉にすると、腹の底がまた冷えた。


 カタリナの指先が杯の脚で止まった。


「そう」


 その一言だけだった。だが軽口がなかった。黒い瞳が、初めて真面目にこちらを見ていた。


「それは厄介ね」


「お前にまで言われたくない」


「言うわよ。あの方は、感情を理解しないくせに、感情で動く人間を潰す時だけは正確だもの」


 杯が卓に戻された。音がしなかった。置き方だけは、妙に丁寧だった。


「経験談か」


 カタリナが少しだけ笑った。


「ええ。経験談」


 そこで初めて、俺は椅子に座った。座らせられた、のほうが近い。



    ◇



「十六の頃、好きだった男がいたわ」


 唐突だった。話の入り方が乱暴すぎて、一瞬ついていけなかった。


「意外?」


「少しな」


「失礼ね。私にだって、十六の頃はあるわ」


 黒い瞳が細くなった。だが猫の目ではない。自嘲に近い笑みだった。


「父の側に出入りしていた書記官見習いよ。名門でも何でもない。字が綺麗で、声が柔らかくて、私が話すと、ちゃんと最後まで聞いてくれた」


 カタリナの指が杯の縁をなぞった。いつもの挑発の指先ではなく、記憶を確かめるみたいにゆっくりしている。


「私は賢いつもりだったの。王都の男は皆、家名か持参金しか見ていない。あの男だけは違うと思った。そう思いたかったのかもしれないけれど」


 暖炉の薪が崩れた。赤い火が一瞬だけ強くなって、カタリナの横顔を照らす。


「ある晩、あの男は言ったわ。公爵家の招待状の流れを一度見てみたい、と。次の宴に誰が来るのか把握しておけば、粗相をしなくて済むからって。かわいい頼みだった」


「渡したのか」


「写しだけ。父の印章が押された招待状の控えをね」


 黒い瞳がこちらを見た。逃げなかった。


「三日後、その名簿に載っていた父の派閥の家が二つ、先に帝国側へ接触していたことが露見したわ」


 カタリナは一拍置いて、声を落とした。


「告発状が議会に出た。誰がいつどこで会っていたか、全部揃っていた」


 喉が乾いた。卓の上の水差しに手を伸ばしかけて、やめた。


「その男が流した」


「ええ。書記官見習いなんて顔よ。中身は、金で雇われた目と耳だった」


 カタリナの笑みが消えた。


「父は潰れなかったわ。ぎりぎりで切ったものが多すぎたから。派閥の人間を三人切って、侍女を一人消して、書類番の老人を一人追い出して、それで家は残った」


 最後の一文だけ、声が少し擦れた。


「侍女は私付きだった。私が渡した写しを、あの男に届けたのもあの子」


 利得の目の灰色が強くなった。生存。冷たい、底のない色。


「処分されたのか」


「表向きは実家に返したことになっているわ」


 カタリナが杯を取り、今度は一気に飲んだ。


「二度と会っていない」


 薪が爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。


「その男は?」


「捕まっていないわ。逃がしたのよ、父が」


「なぜ」


「泳がせたほうが、上にいる人間へ繋がるから」


 カタリナの唇が歪んだ。


「そういう家でしょう、貴族って」


 言い返す言葉がなかった。


「後で知ったの。あの男、私に近づく前から、私の好きな菓子も、読む本も、散歩の時間も調べていた。信じさせるために。恋まで手順にできるのだと、あの時に知ったわ」


 そこで初めて、香水が薄い理由が分かった。今夜のカタリナは、武装を減らしている。


「だから私は誰も信じない」


 言い切った。


 強い言葉だった。だが利得の目は、その言葉の下で別の揺れを拾っていた。


 灰色の上に、細い色が浮いている。白に近い、淡い金だった。これまで見たことがない形をしている。欲でも保身でもない。名前をつけるなら、問いかけに似ていた。


 (こいつは、何かを探している)


 色の正体はわからない。だが灰色の底から浮かんでくる以上、生存よりも深いところにある。誰も信じないと言い切った女の靄に、この色が浮いていること自体が矛盾だった。


 (お前、本当は)


 口の奥まで出かかった。


 だが、その先で喉が詰まった。


 あなたといると疲れる。


 前世の声が、記憶の奥から滑り込んできた。信じたいと言って、拒まれた側の声だ。舌が止まる。


「……何?」


 カタリナが身を乗り出した。泣きぼくろが蝋燭の光を受けて、小さく揺れた。


「いや」


 声が少し掠れた。


「続けろ」


 誤魔化し方が雑だった。だがカタリナは笑わなかった。


「それ以来、私は相手が何を欲しがっているかより、どこで裏切るかを先に見るようになったわ。便利よ。長生きできる」


「それで生き残った」


「ええ。でも」


 カタリナの指先が、蛇の首飾りに触れた。癖だ。だが今は飾りではない。喉元を守る手つきだった。


「ルドルフ公の前では、役に立たないの」


 その名が出た瞬間、灰色がまた前に出た。


「あの方は、人が裏切る前提で全部を並べる。だから裏切りが武器にならない。信じないことを武器にしてきた人間ほど、あの方の前では丸裸になる」


 黒い瞳がこちらを見た。


「だからあなたが感情で動くと読まれたのは、まずいの」


 一拍、息を継いだ。


「あの方は理解できないものを嫌う。切り捨てる時だけは躊躇しないから」


「親切だな」


「親切よ」


 カタリナが立ち上がった。卓を回り、俺の横まで来て、酒瓶を取る。二杯目を注いだ。


「もう一杯だけ」


 今度は俺の前にも杯を置いた。


「さっきは断ったろ」


「さっきはさっき。今は今よ」


 透明な酒が暖炉の灯りで琥珀に見えた。断る理由を探して、見つからなかった。杯を取った。一口だけ。喉が焼けて、胃の底に落ちた。


 カタリナが自分の杯に口をつけながら、俺の隣の椅子に座った。さっきまでの向かい合わせではない。横並び。暖炉の灯りが同じ側から当たっていた。


 二杯目の酒が回るのは早かった。判断が三割ほど鈍っている自覚がある。


 カタリナの指先が杯の脚を離れて、卓の上を滑った。俺の手首に触れる。脈を測るみたいに、二本の指が押し当てられた。


「速いわ、脈」


「……触るな」


「嫌?」


「嫌じゃないから触るなと言っている」


 カタリナが笑った。だが計算の笑いではなかった。相手の反応を楽しんでいる顔。こちらの言葉の矛盾を面白がっている顔だった。


 指が離れない。手首の皮膚の薄いところに、カタリナの体温がある。


 視線が落ちた。蛇の首飾りが鎖骨の上で揺れている。暖炉の灯りが首飾りの金属に当たって、影が落ちていた。影の下、鎖骨から胸元にかけての肌が見えている。黒いドレスの襟ぐりが、座った姿勢でわずかに開いていた。


 視線を戻した。遅かった。


「あなたの奥方は、あなたの脈が速くなることを知っているかしら」


 声が低かった。からかいの温度だが、その下に別のものが混じっている。


 手を引いた。


 引いた瞬間、指先の熱が消えた。指先が冷えて、胸は楽になった。その二つが同時にあることが、一番まずい。


「深酒はしない主義だ」


「手首の話を酒で誤魔化すのね」


「誤魔化してない」


「嘘が下手ね、本当に」


 カタリナが杯を傾けた。喉が動いて、酒が減った。残りを卓に置く仕草がゆっくりだった。


 沈黙が落ちた。暖炉の火が鳴る。夜露のついた窓に、街灯の光がぼんやり滲んでいた。



    ◇



 カタリナが窓際まで戻り、それから振り返った。


「ねえ」


「何だ」


「本気で言っているの?」


 黒い瞳がまっすぐだった。いつもの戯れの角度がない。


「私を信じるって」


 その言い方で、ようやく気づいた。さっきから俺は、信じるとも信じないとも言わない場所に立っていた。あえて曖昧にしていた。踏み込みたくないから。


 だが、ここで黙るのはもっと悪い。


「信じてない」


 カタリナの睫毛がわずかに動いた。


「だが、利用価値がある」


 一拍。


 それからカタリナが笑った。


 声はいつものように綺麗だった。口元もきちんと弧を描いている。だが目が笑っていない。傷の上に薄い布をかけたみたいな笑い方だった。


「最低」


「知ってる」


「でも、その答えのほうがまだましよ」


 カタリナが窓の外を見たまま言った。


「信じるなんて軽々しく言われたら、今夜はあなたを帰さなかったもの」


 声が低い。冗談の温度ではなかった。


「それは脅しか」


「警告」


 黒い瞳が横目でこちらを見た。そこで初めて、ほんの少しだけ目の端が和らいだ。


「また来なさい、辺境伯殿。次は、もう少し上手に嘘をついて」


「善処する」


「できないくせに」


 玄関まで見送られる間、カタリナはもう仮面を被り直していた。歩幅も、笑みの角度も、蛇の首飾りに触れる指も、全部いつも通りだった。


 だが屋敷の外に出る直前、背中越しに声が飛んだ。


「ユリウス」


 初めて名前だけで呼ばれた。


 振り返ると、カタリナは灯りの境目に立っていた。


「折れないで」


 それだけ言って、扉が閉まった。


 夜気が冷たかった。石畳を踏みながら、右の手首に意識が行く。カタリナの指先が押し当てられた場所。脈はもう落ち着いているはずなのに、皮膚がまだ覚えていた。


 肩にはまだセラフィーナの体温が残っている。手首にはカタリナの指の圧が残っている。暖炉越しに見えた鎖骨の影は、目を閉じれば浮かんでくる。どれも計算には入れられない。入れたら壊れる。


 馬車が待っていた。乗り込んで、夜の王都を走る。窓の外を街灯が流れていく。


 上着の襟に、かすかな匂いがあった。カタリナの香水ではない。もっと薄い、肌に近い匂い。書庫の暖炉と、酒と、それだけでは説明できない残り香だった。


 宿に着いた。階段を上がり、セラフィーナの待つ部屋の前で足が止まった。


 襟の匂いを意識した。嗅げばわかる程度のものではない。だが俺が気づいている以上、セラフィーナが気づかないという保証はなかった。


 扉を開けた。


 セラフィーナは書き物机に向かっていた。こちらを見て、微笑んだ。いつもの王都モードの、隙のない笑み。


「お帰りなさいませ。カタリナ様のご意向はいかがでしたか」


 嘘の利子は複利だ。昨日そう思ったばかりだった。


 今夜、利子がもう一つ増えた。


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