表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/56

信じられるかどうかです

 翌日の午後、王宮の小会議室にルドルフが待っていた。


 立っている。椅子が二脚並んでいるのに、座っていない。窓際に立ち、冬の庭を見下ろしている。銀髪が窓からの光で白く浮いていた。


 俺が入室しても振り返らなかった。三歩の間。それから振り返って、品のある笑みを浮かべた。


「お待ちしておりました」


 昨夜と同じ声だった。均一な温度。感情が関与していないように聞こえた。部屋には給仕もいなかった。机の上に茶の用意が二人分置かれているが、ルドルフの杯は手つかずだった。


 利得の目が起動した。靄は昨夜と変わらない。1位の白銀、2位の鉄灰色、3位の銀白。揺れなし。3位の下の灰色の残骸も、昨夜のまま沈んでいた。


「昨夜のお話の続きを」


「ええ。ぜひ」


 ルドルフが窓際から離れ、机を挟んで俺の向かいに立った。座らない。この男は一人の時以外は座らないのかもしれなかった。


「具体的な条件をお示ししましょう」


 ルドルフが革張りの書類入れから羊皮紙を取り出した。丁寧に広げ、指先で項目を追った。


「グレンツェン辺境領の帝国編入を、ご提案します」


 王国全体ではない。俺の領地だけだ。


「第一に、グレンツェン領は帝国の辺境州として再編されます。辺境伯の地位と領地の自治権はそのまま保障する。第二に、鉱山の産出物を帝国の交易路に乗せます。現在の経済封鎖は即座に解除され、関税は移行期間として五年間、王国側の税率を維持する」


 鉱山。帝国交易路。経済封鎖の解除。俺が半年間もがいてきた問題が、一つの条件で全部消える。五年の移行期間が引っかかった。五年で既成事実を作り、税率を帝国基準に合わせる。猶予ではなく、諦めを待つ時間だ。


「第三に、軍事費は帝国が全額負担します。グレンツェン領の守備隊は帝国軍に編入されますが、指揮系統は当面、辺境伯が維持する」


 当面。また曖昧な期限だ。


「第四に、帝国宰相として、この合意の履行を私が保証します。辺境が安定すれば、他の諸侯にとっても帝国との協調が合理的な選択肢になるでしょう」


 最後の一文で見えた。これは俺の領地だけの話ではない。辺境を先に取り込み、王国の緩衝地帯を消す。グレンツェンが繁栄すれば他の諸侯も追随する。切り崩しだ。


 ルドルフが羊皮紙から顔を上げた。表情は変わらない。


 靄の色は変わらない。1位秩序、2位版図拡大、3位効率。その三つの中に「約束」がない。「信義」がない。「合意の遵守」がどこにも浮かんでいない。


 この男は約束を破ることを考えているのではない。約束という概念が、優先順位の中に存在しないのだ。秩序に従う限りにおいて約束は守られるが、秩序の妨げになった瞬間に約束は消える。


 条件は合理的だった。前世の知識が「受け入れろ」と言っている。辺境の弱小領にこれだけの条件を出す大国は多くない。鉱山、交易路、軍事費。俺の領地の問題が全て解決する。


 だが利得の目は、この条件が紙の上でしか存在しないと告げていた。


「……よく考えられた条件です」


「合理的な方には、合理的な条件をお出しするのが礼儀です」


 ルドルフは表情を崩さないまま、指先で革の表紙をなぞった。反応の抑制。昨夜の薬草園で見た動作とは違う。あれは柔らかさだったが、今は硬い。何かを押さえ込んでいる。


「ただ、いくつか確認させてください」


「どうぞ」


「領地の自治権の保障は、具体的にはどのような法的根拠に基づきますか」


「帝国法に基づく勅令で担保します。私の署名入りで」


「勅令は、次の宰相にも拘束力を持ちますか」


 ルドルフの指が革の表紙の上で止まった。一瞬だった。すぐに指が動き始めたが、止まったことを俺は見逃さなかった。


「帝国法の勅令は、皇帝の裁可を経れば法的に永続します」


「皇帝の裁可を。なるほど」


 傀儡の皇帝の裁可。つまりルドルフの裁可だ。ルドルフが宰相である限りは有効で、ルドルフが去れば紙切れになる。


 窓の外から風の音がした。冬の枯れ枝が軋んでいる。暖炉の薪が燻る匂いが部屋に篭もっていたが、窓際の空気だけが冷えていた。


「辺境伯。率直に伺います」


 ルドルフが一歩近づいた。立ったまま。見下ろされている。長身の男が微笑みながら見下ろしている。


「何が引っかかっていますか。条件に不足がありますか。あるなら追加しましょう」


 追加する、と言った。条件を。不足があるなら足すと。靄は変わらない。1位は秩序。この男にとって、条件の追加は秩序の実現のための手段でしかない。条件の内容そのものに価値はなく、秩序に到達するまでのコストとして計算されている。


「条件の問題ではありません」


 口が動いた。言うつもりのなかった言葉だった。


 ルドルフの片眉がわずかに上がった。興味の信号。昨夜と同じ反応だった。


「ほう。条件ではなく、何が問題ですか」


「……信じられるかどうかです」


 言った瞬間、失策だと気づいた。


 筋の通った人間なら、条件の内容を精査する。数字を確認し、法的根拠を検証し、履行の仕組みを問う。「信じられるかどうか」は感情の言葉だ。理屈の言葉ではない。


 ルドルフが俺を見ている。微笑みは変わらない。だが靄の中で、何かが微かに動いた気がした。透明度が高すぎて確信が持てない。


「信頼。なるほど」


 ルドルフが窓に歩み寄った。背中を向けて、庭を見下ろした。


「信頼とは、予測可能性の別名です。相手が約束を守ると予測できるから信頼する。予測の根拠が弱ければ、信頼は成立しない。合理的な構造です」


 声が変わらない。だが窓の外を見ている。薬草園の時と同じだ。何かを見ている。庭の植物ではない。もっと遠くの何かを。


「……秩序のない世界を、知っていますか」


 声のトーンが落ちた。


 昨夜の薬草園で聞いた温度と似ていた。均一な声の中に、ほんのわずかな温度が混じっている。だが昨夜の柔らかさとは違う。硬い。冷たい。


「全てが燃え、何も残らない朝を」


 ルドルフの背中が動かなかった。窓の光が銀髪を白く照らしている。


 靄の底が揺れた。3位の下の灰色の残骸が、昨夜の薬草園の時よりもはっきり見えた。死んでいたはずのものが、一瞬だけ色を帯びた。赤ではない。橙でもない。黒に近い赤。焼けた色だった。


 (こいつの過去に、火がある)


 すぐに色が沈んだ。ルドルフが振り返った時には、微笑みが戻っていた。


「秩序がなければ、人は燃えます。だから秩序を、一秒でも早く」


 声が均一な温度に戻っている。漏れたものを、閉じ直した。


 深追いすべきか。この男の過去に踏み込めば、何かが見える。だが踏み込むことは、俺自身の手の内を見せることでもある。「この男の過去に興味がある」という情報は、ルドルフに俺の弱点を教える。


「……仰ることは理解できます。秩序の重要性は否定しません」


 言葉を探した。逃げ道を。だが見つからなかった。王国全体の統合なら「議会が」と言えた。だがこれは俺の領地の話だ。決定権は俺にある。


 蝋燭が一本弾ける音がした。暖炉の薪が崩れた。沈黙が長くなるほど、答えの形が露わになっていく。


「辺境伯」


「はい」


「ご自身の領地のことです。条件に不備があるなら指摘してください。追加も修正も致します」


 ルドルフが一歩踏み出した。


「ですが、条件ではないと仰った。信じられるかどうかだと。それは合理的な判断ではありませんね」


 心臓が跳ねた。


「ご自身の領地の未来を、信頼という感覚で決める。条件の不備ではなく、私個人への不信で拒む。それは感情です」


 ルドルフの微笑みが消えた。


 初めて見た。穏やかな微笑みが貼りついていた顔から、表情が消えた。怒りではない。無表情だった。微笑みがなくなっただけで、別人の顔になっていた。


「つまり、あなたは感情で判断している。合理性の外にある何かで」


 声の温度が変わらなかった。微笑みが消えても、声は均一なままだった。それが余計に怖かった。


「残念です」


 ルドルフが羊皮紙を丁寧に巻き、革張りの書類入れに戻した。


「合理的な解決を、望んでいたのですが」


 部屋を出ていく靴音が、石の床に響いた。規則正しい、正確な足音だった。扉が閉まり、靴音が遠ざかっていく。


 俺は椅子に座ったまま動けなかった。


 ルドルフに読まれた。「感情で動く」と。利得の目で相手の優先順位を読む俺が、ルドルフには読まれていた。


 あの男は俺が感情で動いていることを見抜いた。いや、違う。見抜いたのではない。「合理的でないから感情だ」と消去しただけだ。だがそれで十分だった。感情の正体を読めなくても、感情で動く男だと知れば、次の手が変わる。


 手が震えていた。机の上の茶が、まだ湯気を立てている。ルドルフの杯は最後まで手つかずだった。


 微笑みのない顔が、目の裏に残っている。あの無表情は怒りではなかった。失望に似ていた。


 合理的な解決を望んでいた。あの言葉に、嘘はなかった。靄は微動だにしなかった。ルドルフは本当に、辺境を取り込むことで王国全体を合理的に飲み込めると信じていた。そしてユリウスがそれを拒否したことに、この男なりの何かを感じていた。


 何かを。感情と呼ぶには遠すぎるが、無関心とも違う何かを。


 俺は冷めかけた茶に手を伸ばして、一口飲んだ。苦かった。


 この男に「感情で動く」と読まれたことが、どういう代償を生むのか。まだ分からない。分からないことが、一番怖かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ