微笑む死神
歓迎の宴が始まる前に、俺はあの男を見つけた。
王宮の大広間に蝋燭が百本以上灯っている。高い天井に吊るされた燭台から琥珀色の光が落ち、磨かれた大理石の床に反射していた。貴族たちが社交の笑みを浮かべて杯を交わし、楽師の弦の音が低く響いている。
その中心から、少しだけ外れた場所に立っていた。
銀髪を後ろに撫でつけた長身の男。氷のように青い目。穏やかな微笑みを浮かべている。その微笑みが、広間のどの笑みとも違った。他の貴族たちの笑みには企みや媚びや計算が混じっているが、あの男の微笑みには何も混じっていない。
利得の目が起動した。
距離は二十歩ほど。靄が見え始める。
最初に目に入ったのは、透明度だった。
これまで見てきた人間の優先順位には、必ず揺れがあった。セラフィーナの靄のように感情が霧を作ることもあれば、カタリナのように意図的に偽の色を被せることもある。フリードリヒのように単純に硬い場合もあった。
ルドルフの靄には、揺れがなかった。
1位。白銀。冷たい光を放っている。秩序だと直感した。金貨でも領地でも権力でもない。秩序そのもの。概念が1位に座っている人間を、俺は初めて見た。
2位。鉄灰色。帝国の版図拡大。1位の秩序を実現するための手段として、明確に従属している。
3位。銀に近い白。効率。無駄を排除すること。
三つとも揺れていない。重さが均一で、境界が鮮明で、互いに干渉していない。一枚の設計図のように整っている。
だが、その下に何かがあった。
3位の下、通常ならぼんやりと消えていく領域に、何かの色の残骸があった。色ではなく、色があった痕跡。かつて何かが燃えて、灰になって、そのまま放置されている。感情に関する何かが、ここに存在していた痕跡。
(こいつの中に、何かが死んでいる)
背筋が冷えた。利得の目で人を読んで、寒気を覚えたのは初めてだった。
◇
宴の席で、ルドルフが近づいてきた。
セラフィーナが隣にいる。王都モードの完璧な微笑み。扇子を胸の前に構え、背筋の角度が一分の狂いもない。カタリナは少し離れた柱の傍に立ち、黒檀の扇子で口元を隠していた。
「グレンツェン辺境伯。お初にお目にかかります」
品のある声だった。声の温度が均一すぎる。抑揚はあるのに、感情の起伏がない。楽器が正確に音を出しているような声だった。
「帝国宰相ルドルフ公。遠路ご足労いただき、光栄です」
俺は頭を下げた。顔を上げた時、ルドルフの氷のように青い目が俺を見ていた。微笑みは変わらない。
「200で3,000を退けたと伺いました。見事な采配だったそうですね」
その3,000を送り込んだのはお前だろう。喉の奥まで出かけた言葉を、社交の笑みで押し戻した。
「過分なお言葉です。地の利に助けられただけのことで」
「ご謙遜を。地の利を見抜く目と、それを活かす判断があってこそ」
自分の軍を退けた男を褒めている。声のトーンは変わらない。利得の目で靄を見ても、挑発も怒りも、悔しさの欠片すらなかった。本当に、ただ事実を述べているだけだった。3,000を退けられたことが、この男にとっては天気が崩れた程度の出来事なのだ。
「目と判断、どちらが欠けても結果は変わっていたでしょう」
目、という言葉にわずかな重みがあった。偶然か、意図か。
セラフィーナが口を開いた。
「宰相閣下。長旅でお疲れのところ、このような席にお運びいただき恐縮でございます」
「いえ。このような美しい方にお会いできるなら、旅の疲れも忘れます」
社交辞令だった。利得の目がルドルフを映している。社交辞令を言っている間も、1位は微動だにしなかった。
お世辞を言いながら裏で計算をしている人間なら、靄にわずかな揺れが出る。ルドルフの靄は動かなかった。俺の目には、感情が動いているようには見えなかった。
セラフィーナの扇子を持つ指が、かすかに力を込めた。この女も気づいたのだろう。目の前の男が、通常の社交の法則で動いていないことに。
ルドルフの視線がカタリナの方に動いた。
「シュタインベルク家のカタリナ嬢もいらっしゃるのですね。お元気そうで何よりです」
柱の傍から、カタリナが歩み出た。黒い瞳がルドルフを見ている。瞳孔が絞まっていた。猫の目ではなかった。蛇に睨まれた小動物の目だった。
「ルドルフ公。お変わりなく」
声が平坦だった。昨夜の「おいしいわ」の温度とも、社交会の猫の目とも違う。感情を全部抜いた声だった。
利得の目がカタリナを映した。偽の金色が消えていた。灰色が靄の表面に浮かんでいる。隠す余裕がないほど、1位の「生存」が前に出ている。
ルドルフはカタリナに微笑んだ。同じ微笑みだった。誰に向けても変わらない、温度のない微笑み。
「お父上にもよろしくお伝えください」
「ええ。伝えますわ」
カタリナの素手の指先が、蛇の首飾りに触れていた。爪が金の鱗に食い込んでいる。
ルドルフが去った後、カタリナの灰色は三十秒ほど表面に留まり、それからゆっくり金色の下に沈んでいった。
◇
宴が終わりに近づいた頃、ルドルフが俺に声をかけた。
「グレンツェン辺境伯。よろしければ、少し庭をご案内したいのですが」
セラフィーナの扇子が動いた。閉じかけて、止まった。ここで止めれば不自然になる。ルドルフはそれを見越して、この場で誘っている。
「喜んで」
俺は杯を置いて立ち上がった。セラフィーナが「お気をつけて」と微笑んだ。微笑みの精度が高い。俺にしか読めない程度の、薄い警告だった。
王宮の中庭を抜け、回廊を曲がると、小さな薬草園があった。
月明かりの下に、低い垣根で区切られた畝が並んでいる。セイヨウオトギリソウ、カモミール、ラベンダー。冬の冷気の中でも緑が残っている種がいくつかあった。手入れが行き届いていた。
「王宮に薬草園があるとは知りませんでした」
「私が頼んで作らせたものです。王都に来る時は必ず立ち寄ります」
ルドルフが畝の間にしゃがみ込んだ。片膝をついて、カモミールの葉の縁を指先で撫でた。
声のトーンが変わった。
宴で聞いた均一な声ではなかった。ほんのわずかだが、温度がある。指先が葉を撫でる動きに合わせて、声が柔らかくなっている。
「この株は秋に植えたものですが、根づきがいい。土が合ったのでしょう」
利得の目を向けた。靄は変わらない。1位は秩序、2位は版図拡大、3位は効率。揺れていない。
ただ、3位の下にあった灰色の残骸が、ほんの少しだけ明るくなっていた。
死んでいたはずの何かが、植物に触れている間だけ、微かに脈を打っている。
「植物は裏切りません」
胸の底が、少しだけ軋んだ。
ルドルフが立ち上がりながら言った。声のトーンが戻った。均一な温度に。
「水と光を与えれば、必ず応える。人間とは違います」
「人間は裏切ると」
「裏切るというより、予測が難しい。感情で動く生き物ですから。感情は、秩序の敵です」
世間話でもするような口調だった。そのまま天気の話に移れるような声で、感情は秩序の敵だと言った。
俺は薬草園の小道を歩きながら、ルドルフの横顔を見た。月明かりが銀髪を白く照らしている。微笑みが貼りついたまま、夜の薬草を見つめている。
「辺境伯」
「はい」
「王国の現状を、どのようにお考えですか」
来た。ここから先が本題だと、利得の目が見なくても分かった。
「議会での議論の通りです。帝国の圧力に対して、防衛体制を整える必要がある」
「防衛体制。なるほど。それは手段としては合理的です」
ルドルフが歩きながら、ラベンダーの枝に指先を伸ばした。触れずに、匂いだけ確かめるように指を近づけて戻した。
「ですが、最も効率的な選択肢は別にあります」
「伺いましょう」
「あなたの領地が帝国に編入されることです」
足が止まった。
ルドルフは歩みを止めなかった。二歩先で振り返り、穏やかに微笑んでいる。
「編入されれば、帝国軍の脅威は消えます。鉱山の産出物は帝国の交易路に乗り、経済封鎖もなくなる。軍事費は帝国が負担し、辺境伯の地位はそのまま保全する。あなたの領地は、二度と3,000の軍に脅かされることはありません」
一つ一つが、正しかった。
論理として、反駁する穴がない。帝国に編入されれば、俺が半年間必死に凌いできた問題の大半が消える。経済封鎖も、軍事的脅威も、鉱山の販路も、全てが解決する。
前世の知識が囁いた。歴史上、小国が大国に統合されて繁栄した例はいくらでもある。効率の観点だけで言えば、ルドルフの提案は正しい。
それが嫌だった。正しいと認めてしまう自分が。前世の俺なら、こういう論理で全部片づけていた。数字を並べて、効率を証明して、感情を変数から外して。それで何を手に入れた。「あなたといると疲れる」という一言だ。
「……興味深い提案です」
言葉を選んだ。利得の目がルドルフを見ている。靄は微動だにしない。この男は脅しているのではない。本気で、これが最善だと信じている。
ルドルフの片眉がわずかに上がった。
「興味深い。その言葉を使う方は少ない。大抵は即座に拒絶されます」
微笑みの奥で、何かが動いた気がした。だが利得の目には映らなかった。靄の透明度が高すぎて、微細な変化が読めない。
「即座に拒絶するには、あなたの論理が正確すぎます。ただ、効率だけで領地の形を決めるのは、少し急ぎすぎではありませんか」
「急ぎすぎ、ですか」
ルドルフが薬草園の出口で立ち止まった。回廊の灯りが、銀髪の輪郭を橙色に縁取っている。
「秩序は早ければ早いほどいい。混沌が続く一日は、百の命を飲み込みます」
声の温度は変わらなかった。変わらないまま、百の命と言った。
俺はルドルフの背中を見ながら、回廊を歩いた。靴音が石の床に響いている。二人分の靴音。テンポが正確に揃っている。
ルドルフが振り返らずに言った。
「考えておいてください。急ぎはしません。ですが、遅すぎることは、ありますので」
微笑みは見えなかった。背中しか見えなかった。だが声の温度から、微笑んでいることが分かった。
大広間に戻ると、セラフィーナが杯を持ったまま待っていた。杯の中身は減っていない。飲む余裕がなかったのだろう。
「何を話されましたの」
「薬草の話だ」
セラフィーナの翡翠の瞳が俺を見た。信じていない目。もう慣れた。
「それと」
「それと?」
「グレンツェンを帝国に編入しろ、と言われた」
セラフィーナの扇子を持つ手が白くなった。
「……それで、あなたの答えは」
「考えておく、と言った」
扇子が閉じた。音がしなかった。丁寧に、静かに。
「考える余地があるとお思いですの」
「論理としては穴がない。それが厄介だと言っている」
セラフィーナが俺を見た。翡翠の瞳の奥に、怒りとは違う何かがあった。
「論理に穴がないことと、正しいことは違いますわ」
声が低かった。王都モードの丁寧語だが、語尾に重さがあった。
正しい。この女は正しい。だがそれを口にする代わりに、俺は杯を取り上げた。一口飲んだ。酒が喉を焼いた。
言えばいいのだ。「お前の言う通りだ」と。それだけで、翡翠の瞳の奥にある何かが少し溶ける。分かっている。分かっていて、言葉が出なかった。ルドルフの論理が正しいと感じた自分を、まだ否定しきれていないからだ。
また嘘をついた。「薬草の話だ」も嘘だった。セラフィーナは知っている。俺が嘘をついていることを。俺も知っている。この女がそれを知っていることを。嘘の上に嘘を重ねるたびに、翡翠の瞳の中で何かが閉じていく。昨夜の「信じないことを決めた目」が、今夜はもう少し深くなっていた。
あの男の靄に揺れがなかった。植物にだけ声のトーンが変わり、3位の下で死んでいた何かが、カモミールの葉に触れた時だけ微かに脈を打っていた。
完璧に整った優先順位の、その完璧さが気味悪かった。
人間は、あそこまで整えない。整えられない。整えるためには、何かを殺さなければならない。
あの男が殺したものの正体が、まだ見えない。見えないのに、俺はそれを見たいと思っていた。




