三者のゲーム
翌朝、セラフィーナが朝食の席で口を開いた。
「カタリナ・フォン・シュタインベルクを、こちらにお招きいたしましょう」
紅茶の杯を置く音がした。静かだったが、置き方に迷いがなかった。
「お前が呼ぶのか」
「あの女と手を組むと仰るなら、条件を確認する場が要りますわ。二人きりで会って酒を飲むのは、交渉とは呼びません」
声は穏やかだった。穏やかすぎる。昨夜の「靄が晴れましたの?」の余韻が、丁寧語の裏側に折りたたまれている。
「あの女に弱みを見せるつもりはない。お前の目の前で話すなら、なおさら」
「弱みですか。あなたが弱みをお持ちとは存じませんでしたわ」
翡翠の瞳がこちらを見た。微笑んでいる。だがその微笑みの精度が高すぎる。怒りの深度を測る物差しは、もう半年分の蓄積がある。
昨夜の紅茶が冷めていたこと。何杯も飲んだ跡があったこと。あの女は、ずっと待っていたのだ。
「……午後にでも書状を送る」
「結構ですわ。私が送ります」
扇子を開き、紅茶を口に運んだ。話は終わりだという所作だった。
◇
カタリナが到着したのは、夕刻だった。
エルヴィン家の王都屋敷の応接間に、蝋燭が六本立っている。窓から冬の残光が差し込んで、壁の紋章が長い影を落としていた。
カタリナは黒いドレスに蛇の首飾りで現れた。昨夜と同じ装いだが、今日は靴を履いている。素手の指先に黒檀の扇子。
「お招きいただけるとは。奥方自らのお手紙で、光栄ですわ」
セラフィーナが微笑んだ。翡翠の瞳と黒い瞳が、応接間の中央で交差した。
「お茶をお出しいたしますわ。昨夜はお酒だったそうですから」
声が滑らかだった。棘がない。棘がないことが、棘だった。昨夜と同じ構造の言葉が、今度はカタリナの前で繰り返されている。
カタリナの瞳孔がわずかに開いた。口の端が持ち上がっている。面白がっている。
「紅茶で結構よ。酒は辺境伯殿と二人の時にとっておくわ」
セラフィーナの扇子を持つ手が白くなった。
二人の女が向かい合って座り、俺はその間に椅子を置いた。三角形の配置。利得の目が勝手に起動していた。
セラフィーナの靄が昨夜と違う。固い。凍っている。靄の表面に冷たい光が走り、その奥で1位が脅威の排除に染まっていた。カタリナを敵として処理している。
セラフィーナが紅茶の杯を持ち上げ、口をつけずに戻した。指先が白い。
カタリナに目を向けた。昨夜の灰色は靄の奥に沈んでいた。酒が抜けて制御が戻っている。表面に浮かんでいるのは薄い金色で、重さがない。偽物だ。だがその金色がゆっくり揺れている。この女は今、状況を眺めている。
セラフィーナは脅威を潰しにかかり、カタリナは脅威を観察している。鎧と仮面。同じ応接間に座っていて、心の中は別の戦場にいる。
(この二人を同時に使いこなせるか?)
不謹慎だと思いながら、嫌いじゃなかった。
◇
紅茶が三人分並んだ。セラフィーナの杯からは湯気が立ち、カタリナの杯は手をつけていなかった。
「ヴァルトシュタイン家への対策を話し合いたい」
俺が切り出した。
「あの家が帝国の金で動いているなら、議会での反対は信念ではなく指示だ。つまり議場で説得しても意味がない」
「ええ。ヴァルトシュタインを落とすなら、議場の外よ」
カタリナが紅茶の杯を取り上げ、香りだけ確かめて戻した。セラフィーナの淹れた茶を飲まないという意思表示なのか、ただの癖なのか。
俺はカタリナに目を向けた。
「具体的にどうする。賄賂の証拠を掴んで暴露するか?」
「暴露は最後の手段ですわ」
セラフィーナが扇子の骨を指で辿りながら言った。暗算が始まっている。
「証拠を握った状態で、ヴァルトシュタイン家に接触します。帝国から金を受け取っていることを我々が知っていると伝えれば、あの家は選択を迫られますわ。帝国側につくか、こちらに寝返るか」
「脅迫ね」
カタリナが唇の端を持ち上げた。
「交渉ですわ」
セラフィーナの微笑みが深くなった。同じ微笑みの中に、昨夜の怒りとは違う光があった。策を組み立てている時の、鋭い輝き。
「面白い発想ね。でもヴァルトシュタインが帝国に駆け込んだ場合のリスクは?」
「駆け込めませんわ。証拠を握っているのが私たちだと知れば、暴露のリスクは帝国側にもかかりますもの」
カタリナの黒い瞳がセラフィーナを見た。瞳孔が開いている。猫の目。だが今回は獲物を見る目ではなかった。評価している目だった。
「あなた、辺境にいるのが惜しいわね」
「褒めてくださるの。うちの旦那様と二人で酒を飲んだ方に言われると、複雑ですけれど」
空気が冷えた。紅茶の湯気だけが上がっている。
セラフィーナが杯を傾けたまま言った。
「お酒の席で、何をお話しになったのかしら。差し支えなければ」
声が丁寧だった。丁寧すぎた。この問いに正解はない。答えれば内容を裁かれ、答えなければ沈黙を裁かれる。
「ヴァルトシュタインの話だ。それだけだ」
セラフィーナの翡翠の瞳が、一瞬だけ細くなった。信じたのではない。信じないことを決めた目だった。
話を戻すしかなかった。
「証拠の収集はカタリナの情報網に頼ることになる。お前は何を持っている」
このまま放っておくと、二人の間に蝋燭の炎では溶かせない氷が張る。
「帳簿の流れを辿れば痕跡は出るわ。ヴァルトシュタイン家の出入りの商人に、帝国銀貨が混じっているの。両替の記録から追える」
「両替記録にアクセスできるのか」
「私の情報網を信じるか、信じないか。昨夜も同じことを言ったわ」
カタリナの素手がテーブルの上で指を組んだ。蝋燭の光が爪先を照らしている。昨夜、俺の手の甲に触れた指先だった。
視界の端で、セラフィーナの扇子が動いた。扇子の骨を辿る速度が上がっている。暗算ではない。
俺は二人の間に視線を戻した。
「証拠を集める間、ヴァルトシュタインに動きを悟られないようにする必要がある。帝国の目もある」
「そこはあなたの仕事よ、辺境伯殿。議会であれだけ派手にやったのだもの。ヴァルトシュタインの目は今、あなたに向いている。目くらましにはちょうどいいわ」
「俺が囮になれと」
「得意でしょう? 注目を集めるのは」
カタリナが笑った。昨夜の歯が見える笑い方ではなく、口元だけの笑い。仮面が戻っている。
「三者の役割を整理しましょう」
セラフィーナが紅茶の杯を置いた。音がしなかった。丁寧に、慎重に。
「証拠の収集はカタリナ様。ヴァルトシュタインの注意を逸らすのはユリウス様。交渉の設計は私。よろしいですか」
カタリナが黒檀の扇子で口元を隠した。
「お上手ね。仕切りが」
「仕切るのは得意ですの。家の中でも」
視線がぶつかった。翡翠と黒。二人とも微笑んでいたが、目が笑っていなかった。
利得の目が二人を同時に映している。セラフィーナの靄が固くなり、カタリナの金色がゆっくり揺れている。脅威の排除と状況の観察。同じテーブルについて同じ目的を話し合っていて、心の中は別の場所にいる。
(三者のゲーム。全員が別の情報を隠している。俺も含めて)
利得の目の秘密。セラフィーナの「靄が晴れましたの?」への未回答。カタリナが握っている俺の「逃げている何か」。三人とも、テーブルの下に一枚ずつ手札を隠している。
だが利害は一致する。ヴァルトシュタインを抑え、ルドルフの王都での手足を削ぐ。そこだけが、三者の重なる場所だった。
「では、明日から」
俺が立ち上がりかけた時、廊下から足音が近づいてきた。速い。使用人の歩き方ではなかった。
扉が開いた。エルヴィン家の執事が、息を切らせている。礼儀正しい老人が走ったのだと、顔の汗が語っていた。
「申し訳ございません。至急のお知らせが」
「何があった」
「帝国より、親善使節団が到着いたしました。本日午後、王都に入りまして」
セラフィーナの扇子が止まった。カタリナの瞳孔が絞まった。
俺は立ったまま聞いた。
「使節団の長は」
執事が一度唾を飲んだ。
「帝国宰相、ルドルフ・フォン・アイゼンシュタイン様ご本人でございます」
応接間が静まった。蝋燭の芯が弾ける音が、妙に大きく聞こえた。
カタリナの指が組んだまま白くなっていた。昨夜の酒で見せた素足の女は、どこにもいなかった。灰色が見えた。靄の奥から、一瞬だけ。
セラフィーナが先に動いた。扇子を閉じ、立ち上がり、執事に向き直った。
「歓迎の宴の日程は」
「明後日と伺っております」
「衣装の手配を。三人分」
声に揺れがなかった。怒りでも恐怖でもなく、計算が走っている。恐怖を計算に変換する速度が、この女は異常に速い。
カタリナは椅子に座ったまま、紅茶の杯を取り上げた。今度は口をつけた。一口、静かに飲んだ。セラフィーナの淹れた茶を。
「……おいしいわ」
声が低かった。昨夜の「ルドルフ公が嫌いなの」と同じ温度だった。
俺は窓の外を見た。王都の屋根の向こうに、冬の夕焼けが広がっている。帝国宰相。200で3,000を退けた男と、3,000を送り込んだ男が、同じ王都にいる。
利得の目が疼いた。
あの男の優先順位を、直接読める。




