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転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


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カタリナの見落とし

 カタリナの屋敷は、王都の北区にあった。


 石壁に蔦が這い、門灯が二つだけ灯っている。公爵家の次女にしては地味だった。使用人も少なく、門番が一人、こちらの名を確認して通した。


 議会の翌日だった。カタリナから書状が届いたのは今朝のこと。「見落としの件、お教えしたく。今夕、お一人で」。セラフィーナの前で開いた書状を、翡翠の瞳が横から読んでいた。「一人で」の三文字に扇子の骨が軋んだ音を、俺は聞かなかったことにした。


 案内された部屋は二階の奥だった。書斎兼応接間らしい。壁一面に書架があり、机の上に羊皮紙が散っている。窓から見える中庭に、冬枯れの薔薇が数本。蝋燭が三本立っていて、部屋全体が琥珀色に沈んでいた。


「お待ちしていたわ」


 カタリナが窓際の椅子に座っていた。黒いドレスに素足。靴を脱いでいる。蛇の首飾りが蝋燭の光を受けて鈍い金色だった。


 机の上に酒瓶が一本と、杯が二つ。


「座って。堅くならないで」


「堅くはないさ」


 向かい合って座った。カタリナが酒を注いだ。素手の指先が瓶の首を握っていて、爪が短かった。書類を扱い慣れた手だ。


「まず、乾杯しましょう。昨日の議会、本当にお見事だったわ」


 杯が触れた。赤い酒だった。口に含むと、重い果実の香りが広がった。辺境では飲めない酒だ。


「それで、見落としを教えてくれるのか」


「せっかちね。もう少し酒を楽しんでからでも」


「酒は好きだが、蛇に巻かれたまま飲む趣味はない」


 カタリナの口の端が持ち上がった。目が細くなっている。面白がっている顔だ。



    ◇



「ヴァルトシュタイン家は、帝国との融和派ではないわ」


 カタリナが杯を傾けながら言った。声が低い。


「融和派じゃないなら、何だ」


「買収されているのよ」


 酒が喉を通る音が、自分に聞こえた。


「帝国宰相ルドルフの金が、ヴァルトシュタイン家に流れている。金額は知らないけれど、少なくとも五年前から。議会での反対も、自分の信念ではなく、帝国の指示」


「証拠は?」


「私の情報網を信じるか、信じないか。それだけよ」


 利得の目を向けた。カタリナの優先順位は、やはり霧の向こうだった。1位の金色が薄く揺れている。偽物かもしれない。本物かもしれない。


「ルドルフの手が王都まで伸びているなら、辺境の話じゃ済まない」


「そう。だから昨日、あなたが議場でヴァルトシュタインを敵に回したことの意味が変わるの」


 カタリナが二杯目を注いだ。俺の杯にも。


「あなたは議場で勝った。でもあの代理人は、帝国に報告するわ。辺境伯が予算を通した。利得の目の構造は分からなくても、あなたが議場を操れる男だということは伝わった。ルドルフが次に何をするか、わかる?」


「俺を潰しにくる」


「正解。前座で終わらせてくれないのよ、あの人は」


 蝋燭の一本がじりと短くなり、影が揺れた。書架の革表紙が琥珀色から暗い茶色に沈んだ。カタリナの香水が酒の匂いと混じっている。重い匂い。だが酒が入ると、少し甘さが出る。


「それで、この情報の対価は何だ」


「協力関係。あなたと私の」


「具体的に」


「情報を共有する。ヴァルトシュタインの動き、帝国の動き、王都の派閥の動き。私が持っている情報を、あなたに流す」


「お前の利益は?」


 カタリナの指先が杯の縁を辿った。爪がガラスに当たって、かすかな音がした。


「ルドルフ公が嫌いなの」


 声の温度が変わった。さっきまでの計算された低音ではない。もう少し乾いた、硬い声。


「嫌いだから協力してくれと?」


「嫌いだから、潰したいの。一人では無理。だからあなた」


 三杯目の酒を注ぎながら、カタリナの手が震えた。かすかに。親指の付け根が白い。すぐに手を引いて、杯を唇に運んだ。


 利得の目が、一瞬だけ靄を透かした。


 金色の下に、色が見えた。靄が薄くなったのではない。酒がカタリナの制御を揺らしたのだ。


 1位の色は、金色ではなかった。


 灰色だった。冷たい灰色。社交会の夜に一瞬だけ見えた青灰色に似ているが、今回はもう少しはっきりしている。灰の下に熾火があるのではない。灰だけがある色だった。


 生存。


 金色は飾りだった。貼り付けた優先順位だ。本物の1位は、ただ生き延びること。


 (こいつ、何かに怯えている)


 靄がまた被さった。カタリナの瞳孔が絞られて、猫の目に戻った。


「どうしたの、辺境伯殿。難しい顔をして」


「お前の酒が強いだけだ」


「あら、辺境の男は酒に弱いの?」


 笑い方が変わっていた。最初の計算された笑みではない。口の端が上がって、目元に皺が寄っている。二十二歳の顔だ。仮面の下にある、ただの若い女の笑い方。


 俺も三杯目を飲んでいた。頭がほんの少しだけ軽い。


「お前さ、何からそんなに逃げてるんだ」


 酒が口を軽くしている。言わなくていい言葉だった。


 カタリナの笑みが止まった。目が俺を見ている。瞳孔が開いて、閉じて、また開いた。三拍。


「……逃げている、ね」


 声が低くなった。酒の勢いが引いて、素の声が出ている。


「逃げているかもしれないわ。あなたに言われると、腹が立つけれど」


「怒らせるつもりはなかった」


「怒ってないわ。図星を突かれただけ」


 カタリナの黒い瞳が、まっすぐこちらを見た。


「あなたは? 何から逃げてきたの、辺境伯殿」


 口が開きかけて、閉じた。前世の女の声が、一瞬だけ耳の奥を掠めた。あなたといると疲れる。喉の奥が詰まった。


「……さあな。思い出せない」


「嘘ね」


 カタリナが笑った。だが追わなかった。追わない代わりに、俺が何かを抱えていることだけを、黒い瞳の奥に仕舞った。


 杯を握る指が白くなっていた。この女に弱みを見せた。取り返しがつかない。


 カタリナが椅子の上で膝を抱えた。黒いドレスの裾が椅子の脚に流れて、素足の爪先が見えていた。蝋燭の光が白い足首を照らしている。


 素手の指先が、俺の手の甲に触れた。あの夜と同じだ。だが今回は爪で引っ掻かない。指先を置いただけ。体温が高い。酒のせいか。


 判断力が落ちている。自覚はある。


「協力関係、受ける」


 言ってから気づいた。この女に触れられた直後に口が動いている。順番が悪い。酒のせいだと思いたかったが、酒のせいではない。


「……あら。あっさりね」


「お前がルドルフを嫌っていることは、たぶん本当だ。理由は聞かない。今は」


 カタリナの目がこちらを見た。さっきの猫の目ではない。もう少し柔らかい。酒と、さっきの一瞬の本音が、仮面を少しだけ緩めている。


「今は、ね」


 指がまだ手の甲にあった。離れていない。


「あなた、私が怖くないの?」


「怖くないわけないだろ。お前の優先順位、全然読めない」


「それなのに信じるの?」


「信じてない。利用する。お互いに」


 カタリナが笑った。今度は本物だった。計算が入っていない。歯が見えている。


「正直な男。嫌いじゃないわ」


 指が手の甲から離れた。名残がある。指の跡が温かい。


「もう一杯だけ飲んで帰りなさい。奥方が待っているでしょう」


 四杯目を飲んだ。カタリナは窓の外を見ていた。冬枯れの中庭に月が出ていて、薔薇の枝の影が壁に落ちている。仮面を被り直す前の横顔は、蛇の首飾りを外せばただの二十二歳の女だった。



    ◇



 エルヴィン家の屋敷に戻ると、セラフィーナが書斎で待っていた。


 蝋燭が一本。紅茶の杯が二つ用意されている。一つは冷めている。もう一つは手つかず。


「お帰りなさいませ」


 声が平坦だった。平坦すぎる。


「カタリナから情報を得た。ヴァルトシュタイン家は帝国の宰相に買収されている」


 セラフィーナの翡翠の瞳が細くなった。扇子を握る手に力が入り、指先が白い。


「買収。それは確かですの?」


「カタリナの情報網を信じるなら。裏は取る」


「あの女の情報を、裏も取らずに信じるおつもりですの」


「だから裏は取ると言っている」


 セラフィーナが紅茶を口に運んだ。冷めている方の杯。すでに何杯飲んだのか、茶葉が薄い。


「カタリナと協力関係を結んだ」


 紅茶の杯が止まった。


「……協力関係」


「情報の共有だ。ルドルフの動き、ヴァルトシュタインの動き。俺たちだけでは見えないものがある」


 セラフィーナが杯を置いた。音がしなかった。丁寧に、慎重に。


「あの女は信用できませんわ」


「知っている」


「知っていて、なぜ」


「だから近くに置く」


 セラフィーナの翡翠の瞳がこちらを射抜いた。


「敵の可能性がある奴は、目の届く場所にいた方がいい」


 セラフィーナの微笑みが深くなった。翡翠の瞳が笑い、唇が弧を描き、それでいて目の奥が冷たい。


「そう。目の届く場所に。あなたの目は、いつもよく届きますものね」


 声が滑らかだった。棘がない。棘がないことが、棘だった。


「お酒の匂いがいたしますわ。お召し替えなさいませ」


 セラフィーナが立ち上がりかけて、止まった。扇子を開く手が、一瞬だけ下がった。


「……あの女の目は、靄が晴れましたの?」


 息が止まった。セラフィーナは利得の目のことを知らない。知らないはずだ。だが半年間、この女は俺の「目」を見てきた。


「何の話だ」


 セラフィーナが微笑んだ。今度の微笑みは、怒りではなかった。もっと深い場所から来ている顔だった。


「お召し替えなさいませ」


 扇子を開いて顔を隠し、書斎を出た。足音が廊下に遠ざかっていく。


 冷めた紅茶の杯を見た。何杯も飲んだ跡がある。待っていたのだ。ずっと。


 胃の底にカタリナの酒がまだ温かい。目の前にはセラフィーナの冷めた紅茶。


 俺の利得の目は、カタリナの靄をわずかに透かした。だがセラフィーナの靄は、半年かけても晴れない。


 そして今夜、セラフィーナは「靄」という言葉を使わずに、俺の目のことを問うた。


 あの女は、いつから気づいていた。


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