毒蛇の値段
「少しお話しませんこと、辺境伯殿。こちらでは声が届きすぎますわ」
カタリナが扇子を閉じて、広間の奥を示した。柱と柱の間に幕が垂れている。その向こうに控えの間があるらしい。
隣でセラフィーナの扇子を握る指が白くなった。
「ご一緒してもよろしいかしら」
疑問形だが、拒否を許さない声だった。
「もちろん。お久しぶりですもの、セラフィーナ」
カタリナの唇が弧を描いた。二人の視線が俺の頭の上を通り過ぎて交差している。
三人で幕の向こうへ歩いた。すれ違う貴族の色が流れ、目がまだ勝手に拾っている。止められない。
薄暗い回廊を抜けると、小部屋があった。円卓と椅子が四脚、壁に燭台が二つ。密談用の部屋だろう。蝋燭の光が弱く、顔の半分が影に沈む。
扉が閉まった。広間の喧騒が遠くなって、カタリナの香水の匂いが濃くなった。重い匂い。甘くはないが、嗅ぎ続けると頭がぼんやりする種類の。
「それで」
カタリナが椅子に座り、脚を組んだ。黒いドレスの裾が流れて、白い足首が蝋燭の光を受けた。
「辺境の坊やは、何を探しに王都まで来たの?」
「貴族議会の出席命令だが」
「それは建前でしょう?」
カタリナの扇子の先が俺に向いた。口元は笑っているが、黒い瞳は笑っていない。
「200で3,000を退けた男が、素直に命令に従うだけで来るとは思えないわ」
「カタリナ様」
セラフィーナが口を開いた。声が低い。
「辺境伯は議会への出席をお命じになられたから参りました。それ以上でも以下でもございませんわ」
「まあ、律儀な奥方」
カタリナの目がセラフィーナに向いた。笑みの形を変えずに。
「辺境でのご生活はいかが? 退屈ではなくて?」
「充実しておりますわ」
「あら。私なら耐えられないわ。王都の社交も、劇場も、あの焼き菓子屋も、全部置いて行ったのでしょう?」
セラフィーナの扇子が止まった。焼き菓子。旅路の宿で、「ここの焼き菓子、昔好きだったの」と言った声が頭をよぎった。
カタリナは知っているのか。セラフィーナが何を好きだったか。
「私は私の判断で参りましたの。カタリナ様に心配していただく必要はございませんわ」
「心配しているのよ、本当に。だって、辺境って何もないでしょう?」
同じ嫌味を繰り返している。だが二度目のほうが毒が深い。セラフィーナの過去を知っている人間の口から出る「何もない」は、ただの悪口ではない。
目を向けた。カタリナの優先順位を読もうとする。
靄は変わっていない。1位の金色が薄く揺れている。だが揺れ方に波がある。さっきの広間より、ほんの少し靄が薄い。
セラフィーナの翡翠の瞳が俺を見た。割って入れ、という目だ。
「カタリナ殿。辺境の話より、もう少し実のある話をしないか」
「あら、辺境伯殿が仕切るの?」
「仕切るんじゃない。時間が惜しいだけだ」
カタリナの瞳孔がわずかに広がった。面白がっている。
「いいわ。では実のある話を。あなた、さっき広間で何をしていたの?」
「何って、社交だが」
「歩きながら、一人ずつ顔を見ていた。目が動いていた。あれは社交の目じゃないわ。値踏みの目よ」
心拍が上がった。
こいつ、広間で俺を観察していた。柱の影に立っていたのは偶然じゃない。最初から俺を見ていた。
「ユリウス様は目端が利く方ですの。辺境では当然の備えですわ」
セラフィーナが即座に割り込んだ。俺の特異性を「辺境の習慣」に回収しようとしている。
「辺境の習慣、ね」
カタリナが頬杖をついた。信じていない顔。
「ところでセラフィーナ。今夜の広間に、レンハイム子爵がいらしていたわ。あなたのお父様と、何か揉めていなかったかしら」
セラフィーナの扇子が一瞬止まった。
「何のことでしょう」
「さあ。でも、先ほど子爵がお帰りになる際に、お怒りの様子だったの。エルヴィン家のことで何か言っていたわ。気になるなら、まだ控えの間にいらっしゃるかもしれないけれど」
セラフィーナの翡翠の瞳が揺れた。エルヴィン家の名前が出た瞬間に、判断の天秤が動いたのが見えた。
家名の安泰。セラフィーナの優先順位の、かつての1位。靄がかかった今でも、底にはまだある。
「ユリウス様」
「行ってこい。エルヴィン家のことなら、お前が判断すべきだ」
セラフィーナの目が俺を射抜いた。行きたくない。だがエルヴィン家の問題を放置もできない。
「……五分で戻りますわ」
立ち上がり、扉に向かった。振り返り際に、声を落として。
「カタリナ様の言葉を、額面通りに受け取らないでくださいませ」
扉が閉まった。
カタリナの香水の匂いが、一段濃くなった。
「やっと二人きりね」
カタリナが椅子から立ち上がり、円卓を回って俺の椅子の横に来た。
近い。
香水の重さが上がった。黒い髪が顔の横を通り過ぎて、前髪の隙間から片目が覗いている。右目の下の泣きぼくろが近くで見ると艶っぽかった。
「レンハイム子爵の話は本当なのか」
「さあ。いたのは本当よ。怒っていたかどうかは、知らないわ」
嘘か本当かわからない。この女の情報は全部そうだ。
「ねえ」
カタリナの素手が、俺の手の甲に触れた。指先だけ。体温が高い。
「あなた、人を見る時に何が見えているの?」
同じ問いだった。
セラフィーナが半年かけて到達した問いに、この女は一晩で辿り着いている。
「何も見えないさ。目がいいだけだ」
「ふうん」
カタリナの指が手の甲の上を滑った。爪の先が軽く皮膚を引っ掻いて、背筋に電気が走った。
判断力が落ちている。美女に触れられると三割減る。自覚があるのに止められない。
「面白い反応」
カタリナが指を引いて、俺の目を覗き込んだ。瞳孔が広がっている。猫の目だ。
「体は正直ね、辺境伯殿」
「お互い様だろ」
「あら。私は何も見せていないつもりだけれど」
その通りだった。利得の目を向けても、カタリナの優先順位は靄の向こうだ。靄の端がわずかに動いた。金色の下に、別の色が一瞬だけ見えた。
冷たい色だった。青灰色の、底のない色。
恐怖か。
見えたのは一瞬だった。すぐに金色が被さって消えた。カタリナの表情は変わっていない。笑みの形も、目の角度も。
「で、辺境伯殿。あなたが王都で欲しいものは何? 兵? 金? 名声?」
「情報だ」
出した。三割減の頭が、出すべきカードを計算している。情報が欲しいという情報は、相手に「交渉の余地がある」と伝える。
「まあ、正直」
「帝国の宰相が動いている。交易路を締めて、同盟を崩しにかかっている。辺境だけでは見えないものがある」
「ルドルフ公のことね」
カタリナの声が半音下がった。
「あの方の手は長いわ。王都にも届いている」
「知っているのか」
「知っていなければ、私がここにいる意味がないわ」
カタリナが椅子に戻って脚を組み替えると、ドレスの裾が揺れて蛇の首飾りが蝋燭の光を反射した。
「情報が欲しいなら、対価が要るわ。あなたが帝国の3,000を退けた時、何をしたの。本当のことを」
「退路を断って、偽情報を流して、二週間凌いだ。帝国の指揮官は宰相への忠誠が薄かった。死ぬ気で来ていなかった」
事実だった。ただし利得の目で読んだ部分は省いた。「忠誠が薄かった」の根拠を聞かれたら困る。
「どうやって忠誠が薄いとわかったの?」
来た。
「戦の最中に斥候を出した。帝国の兵が、指揮官の命令に反応する速度でわかる」
嘘だ。だが不自然ではない。
カタリナの視線がこちらを捉えた。三秒。五秒。瞬きをしない。
「嘘ね」
声が柔らかかった。責めてはいない。楽しんでいる。
「でも、いい嘘だわ。今はそれでいい」
扇子が開いて、口元を隠した。だが目が笑っていた。瞳孔がまだ広がっている。
「私からも一つ。ヴァルトシュタイン公爵家は信用しないことね」
「今夜の社交会の主催だが」
「主催するのは、客の顔が見たいからよ。誰が誰と話し、誰が何を飲み、誰が何を避けたか。全部、記録されているわ」
利得の目がなくても、それは不穏だった。
「帝国との繋がりがあるのか」
「さあ。私はただ、信用しないことをお勧めしただけ」
カタリナが立ち上がった。俺との距離が再び縮まって、耳元に顔を寄せた。髪の匂いが香水と混じって、別の匂いになった。
「また話しましょう、辺境伯殿。あなたとの会話は、久しぶりに退屈しなかったわ」
唇が耳に近い。息が触れる距離。
「次は、もう少し正直になってくれると嬉しいのだけれど」
体が反応しそうになるのを奥歯で止めた。
「正直にしたら、つまらなくなるだろ」
「あら。辺境の坊やにしては、気の利いたことを言うのね」
カタリナの笑い声が小部屋に響いた。低くて、丸い声だった。
◇
広間に戻ると、セラフィーナが柱の影に立っていた。
杯を手にしているが、中身は減っていない。
「レンハイム子爵は?」
「お帰りになった後でしたわ」
声が平坦だった。平坦すぎる。カタリナの情報が本当だったのか嘘だったのか、セラフィーナの表情からは読めない。
「お話は済みましたの?」
「ああ」
「五分で戻ると申しましたのに、十分以上お待たせしましたわ」
計っていたのか。
「帝国の話と、ヴァルトシュタイン家の話だ」
セラフィーナの翡翠の瞳が、俺の首元を見た。
「香水がついていますわ」
声が平坦だった。平坦すぎる。
「距離が近い女だった」
「存じておりますわ。あの方は昔からそう」
扇子の骨を指先が辿っている。暗算の指ではない。爪が白い。
「あの女には気をつけなさいませ。シュタインベルク家は、王都で最も情報を握っている家です。情報を握っている人間は、情報で人を殺しますわ」
「だから近づいた」
「近づきすぎですわ」
セラフィーナが杯を口に運んだ。一口。表情が変わらない。
王都のセラフィーナには隙がない。辺境での計算の鎧に、もう一枚何かを重ねている。
「帰りましょう。明後日の議会に備えて、お休みになってくださいませ」
「ああ」
馬車の中で、セラフィーナは窓の外を見ていた。白金の髪が街灯の灯りを受けて、揺れていた。
何も言わなかった。
カタリナの香水の残り香が、馬車の中にまだ漂っていた。
◇
小部屋に一人残ったカタリナは、素手の指先で円卓の木目を辿った。
笑みが消えた。
蝋燭の光の中で、黒い瞳が天井を見上げている。泣きぼくろの下の頬が、わずかに強張っていた。
「面白い男」
声が変わっていた。柔らかさが消えて、乾いた声。
「私の嘘が、あの目には通じにくい」
素手の指先が、蛇の首飾りに触れた。金の鱗が蝋燭の光を吸って、鈍く光った。
「報告通りね。いいえ、報告以上だわ」
カタリナの瞳孔が開いた。
獲物を前にした猫と同じ瞳孔だった。だがその奥に、さっき一瞬だけあの男の目に映った色があった。
青灰色の、底のない色。




