王都ケーニヒスブルク
セラフィーナが、別人になった。
王都ケーニヒスブルクの城門を馬車がくぐった瞬間からだった。白金の髪を編み直し、翡翠の髪飾りを留め、扇子を取り出す。背筋の角度が変わった。唇の端が持ち上がり、微笑みが貼りついた。
三週間の旅路では、時折素の顔が覗いた。街道沿いの宿で地図を広げた時に「ここの焼き菓子、昔好きだったの」と敬語を落としたのが一度。馬車の中で居眠りして俺の肩に寄りかかり、目が覚めた瞬間に顔を赤くしたのが一度。
それが全部、城門の向こうに消えた。
「ここでは辺境の英雄譚は通用しませんわ、ユリウス様」
扇子の骨を指先で辿りながら、低い声で言った。敬語が完璧に戻っている。三週間前の朝に「バカ」と言った女と同じ口だとは思えない。
「200で3,000を退けた、という噂は届いているでしょう。ですが王都の方々には辺境の小競り合いですわ」
「わかってる」
わかっている。だが城門の先に広がった景色が、わかっている範囲を超えていた。
石畳の大通りが真っ直ぐ伸びている。幅はグレンツェンの広場がそのまま収まるほどで、両側に三階、四階の石造りが並び、窓から看板が垂れている。すれ違う馬車の数も、荷車の数も、鎧を着た兵の数も桁が違った。
焼き魚、革、馬の糞、香辛料。匂いが全部混じっている。
女が、多い。
窓の向こうを毛織物を抱えた女が横切り、果物を並べる女がいて、貴族風の二人連れが歩道を歩いている。辺境では見ない色の布。嗅いだことのない香水の残り香。
「ユリウス様」
セラフィーナの声に棘が立った。
「首が回りすぎですわ」
口元を扇子で隠しているが、翡翠の瞳は笑っていない。
拒否権条項が、脳の端をかすめた。
◇
宿はエルヴィン家の王都屋敷だった。三階建ての石造り。辺境の館よりは小さいが、調度品の質が違う。壁にかかった織物だけでグレンツェンの歳入の何割かが吹き飛ぶ。
セラフィーナが使用人に指示を出す声が廊下に響いていた。手慣れている。名前を呼び、配置を決め、食材の手配を片づけていく。ここは彼女の庭だ。
俺は二階の書斎に荷を置き、窓から王都の屋根を眺めた。
遠くに尖塔が見える。貴族議会の建物だろう。明後日、あの中で辺境伯として席に着く。三大公爵家がそれぞれの利害で動いている場所。噂だけでは通用しない。
足音が近づいて、扉が開いた。
「明日の社交会の衣装を用意いたしましたわ」
セラフィーナが衣装を抱えた使用人を連れて入ってきた。深緑の上衣と黒の長衣。仕立てがいい。エルヴィン家の蓄えか。
「辺境伯が辺境の格好で出れば、噂の値打ちが下がります」
「俺は中身で勝負するつもりだが」
「中身を見てもらうには、まず外を整えるのですわ」
扇子の先で俺の肩を叩き、振り向きもせず出ていった。
完璧だった。王都に戻ったセラフィーナには、付け入る隙がなかった。
あの朝の掠れた声は、どこにもない。
◇
翌夜、ヴァルトシュタイン公爵家が主催する社交会に出た。名目は秋の収穫祭の祝賀だが、貴族議会の前夜に開くのだから実質は顔合わせと根回しの場だ。
広間に入ると、蝋燭が数百本だった。天井から下がる燭台が四つ、壁沿いに銀の燭台が並び、光が石の床に反射している。百人は超える人間が杯を手にしていた。
目が起動した。
反射だった。これだけの人間が一箇所にいれば、勝手に動く。距離に入った相手の優先順位が、次々と浮かぶ。
左手の太った男。1位が金色に重い。土地か利権。2位の忠誠は中身がなく、上に媚びている色だ。
右手の長身の男。1位が刃物みたいに尖っていた。権力。具体的な対象がある。誰かの席を狙っている目。
その奥に立つ白髪の老人。1位の色が落ち着いて安定している。維持。現状を崩したくない男。この手は味方にしやすい。現状維持を保証してやれば近づいてくる。
五人、十人、二十人。距離に入るたびに色が浮かぶ。目の奥が熱い。辺境の比ではなかった。
色の向きで、誰がどの公爵家に寄っているかが見える。本気かどうかまではわからない。それでも十分だった。
「グレンツェン辺境伯殿ですかな」
恰幅のいい中年が声をかけてきた。額に汗を浮かべている。1位は情報、2位は保身。値踏みに来た男だ。
「はい。本日はお招きいただき」
「いやいや、噂は伺っておりますぞ。辺境で帝国軍を追い返したとか」
声が大きい。周囲に聞かせるように言っている。
「小競り合いですよ。帝国が勝手に帰っただけで」
セラフィーナが隣で唇の端だけ持ち上げていた。「過大評価なさらないことです」と言ったのはこの女だ。だから過小評価で返した。
男が満足げに去った。「辺境伯は謙虚だった」と誰かに報告する顔だ。
「上出来ですわ」
セラフィーナが耳元に寄って囁いた。
「お前の入れ知恵だろ」
「『お前』は王都ではお控えになって?」
口角が上がった。怒ってはいない。釘を刺す目。
杯を取り、酒を口に含んだ。甘い。南方の果実酒だろう。辺境にはない味だ。
広間の奥へ歩いた。もっと読みたい。
十歩で足が止まった。
◇
黒い髪の女が、柱の影に立っていた。
顎の線で切り揃えたボブカット。前髪が片目を隠し、見えている方の切れ長の瞳は黒い。右目の下に泣きぼくろ。紅を引いた唇が蝋燭の光を受けていた。
最初に目がいったのは手だった。手袋をしていない。この広間で素手の女は他にいなかった。
黒いドレスに深紅の刺繍。デコルテが大きく開き、首に蛇を象った金の首飾り。
美人だった。
目が起動した。色が浮かんで、止まった。
靄がかかっている。
セラフィーナの1位を覆う靄とは違った。あれは感情の霧だ。本人にも何が変わったかわかっていないから滲んでいた。
この女の靄は、形が整いすぎている。1位に金色の光が浮かんでいるが重さがない。本物の金色は重い。この金色は薄く、貼り付けたように見える。
「あら」
女がこちらを見た。黒檀に金の装飾が入った扇子を口元に当て、唇の端を持ち上げている。
「辺境の坊やが、ずいぶん面白いことをなさっているのね」
声が柔らかかった。甘くはない。柔らかいだけだ。
隣でセラフィーナの手が止まった。
「カタリナ・フォン・シュタインベルク様」
セラフィーナの声が一段低い。丁寧語の精度が上がっている。
「まあ、セラフィーナ。お久しぶり。辺境にお嫁に行かれたと聞いて心配していたのよ」
カタリナの素手がセラフィーナの手に触れた。親しげに。セラフィーナの肩がかすかに引いた。
「ご心配には及びませんわ」
「そう? でも大変でしょう、辺境は。何もないでしょうに」
丁寧な嫌味だった。
カタリナの黒い瞳が俺に向いた。
「この方が噂の辺境伯? 200で3,000を退けた」
「帝国が勝手に帰っただけですよ」
同じ台詞を使いながら、目はカタリナの1位をもう一度読もうとしていた。
金色が揺れた。風に揺れるのではなく、手で揺らしたように動いた。
「ふうん」
カタリナが俺の目を覗き込み、一歩距離を詰めた。香水の匂いが届く。重くて知らない匂い。扇子の先が胸元に軽く触れ、布越しに指先の圧力がかかった。
「面白い目をしているのね、辺境伯殿」
瞳孔が開いていた。蝋燭の光の中で、黒い瞳の奥が広がっている。
猫が獲物を見つけた時の目だ。
判断力が落ちている。美女の前では三割減る。
もう一度読んだ。金色の薄い光が、笑うように揺れた。
こいつ、見せたいものだけを見せている。
隣で、セラフィーナの扇子を握る手に力が入っていた。翡翠の瞳と黒い瞳が、俺を挟んで視線を交わしている。
辺境では、目さえあれば足りた。
指先が冷たい。あの夜と同じだ。見えないものが、また一つ増えた。




