辺境伯の夜
返事をしたのは、あの夜から三日後だった。
政略上は正しい。ヴェルデン家との紐帯が要る局面は増える一方だった。嫁が美人で困ることもない。計算の答えは出ていた。
ただ、頷いた瞬間に、計算で頷いたのではないとわかった。
何が決め手だったのかは、今もわからない。わからないまま、式の日が来た。
◇
扇子が、畳まれた。
音はなかった。白い指が骨を一本ずつ揃え、静かに膝の上に置いた。それだけだった。
婚姻の式は昼に終わった。寝室の蝋燭は三本。燭台の配置も所作も、セラフィーナが選んだものだ。義務を果たすための舞台を、自分で設えてきた。
翡翠の瞳が俺を見ていた。計算された微笑み。完璧な構え。
俺には読めない。
それは婚礼のひと月前から変わっていなかった。式を経ても、この女の1位が何に変わったかはわからない。靄は晴れていない。靄の向こうに何があるかも、わからない。
怖いまま、目を逸らした。
◇
距離が近づいた瞬間、目が起動した。
意図したわけじゃない。近距離でこの女と対面するたびに、反射で動く。半年間そうだった。
色が浮かんだ。
1位の靄は変わらない。霞んで、輪郭が滲んで、何も見せない。
だが、その下が見えた。
2位に、冷たい色があった。鉄の刃の色に似ていたが、中心に熱を含んでいた。ずっと「自分の価値の証明」と読んでいた輪の形が、少し違う。輪が薄く、縁が震えていた。縁の下に、もっと古いものがある。
3位は温度がなかった。かすかに光る粒のようなものが、遠い場所に並んでいた。
俺の手が動いた。
計算していない。「こうすれば仮面が崩れる」と組み立てたわけでもない。指先がセラフィーナの手に触れて、そこで初めて気づいた。衝動で動いた、と。
セラフィーナの指が、止まった。
扇子を握っていない指が、俺の手の上で、一瞬だけ固まった。
◇
「……ユリウス様」
声が出た。丁寧語で、まだ完璧だった。
だが、息が浅い。
俺は黙ったまま、2位の縁が震えているものを見ていた。輪の下の、古い傷の色を。この女を壊したのがどんな出来事だったのかは今もわからない。でも傷がある。ある、ということだけは見えている。
指先がそこに触れた。比喩じゃない。骨張った手首のあたりを。脈が指に当たった。速かった。
微笑みが、揺れた。
親指が手首の内側をなぞった。セラフィーナの唇が薄く開いて、閉じようとして、閉じきれなかった。
「……何を」
続かなかった。
背筋が伸びたままだったセラフィーナが、わずかに傾いた。所作でも意図した動きでもない。体が前に出てきた。
夜着の肩が片方滑り、鎖骨の線が蝋燭の灯りに浮いた。セラフィーナの手がそれを直そうとして、途中で止まった。
止まっていたことに気づいたのは、もう少しあとのことだ。
◇
蝋燭が一本、消えた。
セラフィーナの声が聞こえた。丁寧語ではなかった。言葉というより、音に近かった。
俺の手が肩から背中へ滑り、夜着の布越しに背骨のかたちがわかった。布がずれ、指が直接肌に触れた。冷たいと思った指先が、途中から熱に変わった。頭で組み立てた場所ではなかった。
セラフィーナの息が乱れ、「やめなさい」と言いかけた語尾が言い切れなかった。言い切れなかったことへの怒りが、呼吸に混じった。
怒っている。俺もわかる。
だが手は、止まらなかった。
唇が首筋に触れると、セラフィーナの爪が俺の腕に食い込んだ。押し返すのか引き寄せるのか、本人にもわかっていない力だった。
背中が弓なりに反った瞬間、翡翠の瞳から微笑みが消えた。形が崩れ、仮面の下にあった別の顔が出てきた。
その顔を、知っている。あの書斎で、俺の中にもあった色だ。
セラフィーナの腕が、俺の首に回った。しがみつくように。声を殺すように。
体の重みが、全部こちらにかかった。
◇
「……っ」
低い声が漏れた。セラフィーナの声が。喉の奥から押し出されたような、言葉になる前の音だった。俺の手が動くたびに、丁寧語も計算も後ろに下がって、もっと根っこのものが前に出てきた。
セラフィーナの手が、俺の頬に触れた。
爪が食い込んでいた手が、頬に。冷たい指が頬の輪郭をたどって、顎のあたりで止まった。引き寄せるように、力がかかった。
唇が触れた。冷たかった。すぐに、冷たくなくなった。
2位の縁の震えが、大きくなっていた。冷たかったものの中心にある熱が、広がっている。
1位の靄が、揺れた。初めてだった。晴れたわけじゃない。ただ、靄の表面が波打つように揺れた。
見られた、と思っているだろう。
見ている、と俺は思っていた。
◇
夜が深くなって、蝋燭がもう一本消えた。
残り一本の灯りの中で、汗に濡れた白金の髪が橙に染まっていた。見えている。まだ、見えている。
セラフィーナの指が、俺の胸の上に置かれていた。動かない。ただ、置かれている。
俺たちはしばらく、何も言わなかった。
◇
朝の光で目が覚めた。
セラフィーナが先に起きていた。
夜着を整えて窓の方を向いている。白金の髪が乱れたまま、直そうとしていない。背中だけが見えていた。
俺が目を開けたことに気づいたのか、セラフィーナの肩が少し動いた。
振り向かなかった。
「……バカ」
それだけだった。
敬語はなかった。「様」も、「ですわ」も、微笑みも、全部どこかに置いてきた、掠れた声だった。
俺は黙って天井を見た。
「バカ」という言葉が、部屋の中にしばらく残っていた。
悪くない朝だと思った。
そこに扉を叩く音がした。
「ユリウス様。……王都から書状が届いております」
扉越しでも、オットーの早口が抑えきれていないのがわかった。
セラフィーナがようやく振り向いた。夜の色はもう残っていない顔だった。ただ、首筋にかすかな赤みが残り、夜着の肩がわずかに落ちている。
俺は上半身を起こして、書状を受け取った。
封蝋を割ると、短い文面だった。国王の紋章。貴族議会への出席を命ずる旨と、日程。三週間後。噂が王都に届く頃合いだ。
「王都か」
俺はもう一度文面を読んで、羊皮紙を膝の上に置いた。
「……いい女が多いらしいな」
翡翠の瞳が、真っ直ぐに俺を刺した。
朝の光の中で、セラフィーナはまだ何も言わない。
ただその視線が、書状よりはるかに重かった。




