計算の外
蝋燭の芯が爆ぜた。
書斎の机に帳簿が三冊、広げたまま残っている。セラフィーナと二人で、密貿易の成果を正規の帳簿に溶かし込む作業を続けていた。
「毛皮は雑費の欄に収めましょう」
「分量は?」
「熊一頭分を二回に分けます。一度に入れると目立ちますわ」
セラフィーナが帳簿に身を乗り出し、指で数字の列を辿る。袖が肘まで落ちて、蝋燭の光が白い腕を橙色に染めていた。
石鹸の匂いがした。
密貿易を始めてから三週間が経った。二度目の取引も済んだ。鉄器と穀物の交換量は少しずつ増え、領地の台所は底を打つ前に持ち直し始めていた。
セラフィーナが顔を上げると、翡翠の瞳が蝋燭の光を拾った。白金の髪が肩から流れ、帳簿の端にかかっている。
近い。
視線が鎖骨に落ちかけたが、帳簿に戻した。
◇
三冊目の帳簿を閉じた時、セラフィーナが扇子を閉じた。
決着の閉じ方だ。帳簿の話が終わったのではない。何かを切り出す気だ。
「ユリウス様」
「何だ」
「婚姻を、正式にいたしましょう」
蝋燭の炎が揺れた。
静かな声だった。棘はない。だが扇子を閉じた手が膝の上に置かれ、指先が揃っている。
準備された所作だ。
「婚約から半年が過ぎました。帝国の封鎖を凌ぎ、密貿易を軌道に乗せ、鉱山の再建も見えてきた。今なら、式を挙げる理由が立ちます」
政略の延長だ。そう聞こえるように組み立てている。
だが俺の目は勝手に動いた。
色が浮かんだ。
一番目が違う。
セラフィーナの1位は、いつも家名の安泰だった。金色の輪のように彼女を取り巻く重さ。それが今、別の色に変わっている。
靄がかかっていた。
1位の輪郭が滲んで、正体が見えない。リーゼロッテの2位に似た霞み方だった。
だがリーゼロッテの場合は最初から霞んでいた。セラフィーナの1位は、前は見えていた。見えていたものが、見えなくなっている。
指先が冷えた。
「……理由が立つ、か」
「ええ。周辺への示しにもなりますわ。レンツ家が抜け、ブルーメ家も揺れている。グレンツェンとエルヴィンが正式に一つになれば、ブルーメ家も離れにくくなります」
計算としては、まったく正しい。
だが、俺の口が開かない。
いつもなら、ここで条件の話に入る。式の時期。招く領主。エルヴィン家への通知の順序。
政略で切り出しているなら、政略で返せばいい。
返せなかった。
1位が変わっている。家名ではない何かが、この女の中で最上位に立っている。
それが何かを知らないまま、条件を並べることが、できない。
半年前の中庭で初めてこの女を見た時、金色の輪のように取り巻いていた重さ。あれが今は別のものに入れ替わっている。
「ユリウス様?」
セラフィーナの声が、近くなった。
翡翠の瞳が俺を見ている。蝋燭の炎が映り込んで、揺れている。
「……少し、考えさせてくれ」
「お断りですか」
「違う」
声が硬かった。自分でも聞こえた。
セラフィーナの視線が一瞬逸れ、すぐに戻った。本音が漏れかけた目だった。
「違うなら、何をお考えなの」
語尾が崩れた。「なの」と言った。「ですの」ではなく。
扇子を持つ手に力が入っていた。閉じた扇子の骨が、白い指の間で軋んでいる。
◇
「……式の時期は、搬出路の開通を待てばいい」
口が動いた。条件の話だ。いつもの俺だ。
「費用の目処も立つ。ブルーメ家の態度が固まるのを……」
止まった。
嘘だ。時期の問題ではない。嘘をつく相手を間違えている。
目の前の女の中で、何が変わったのか。それが読めないまま、段取りを並べている自分が見えた。
「ユリウス様」
セラフィーナが立ち上がった。
机を回り、俺の椅子の横に来た。蝋燭の光が白金の髪の縁を橙色に染めている。
「一つ、聞いてもよろしいですか」
「……ああ」
「ずっと気になっていましたの」
扇子が膝の上に置かれ、両手が空いた。
セラフィーナが両手を空にすることは、ほとんどない。
空いた手が机の上に置かれ、身を乗り出してきた。セラフィーナの翡翠の瞳に、はっきりと俺の顔が映り込んだ。
「初めてお会いした日。中庭で。あなたの目が変わりました」
心臓が跳ねた。
半年前と同じ問いが来ている。だが、あの時は探りだった。確信のない、網を投げるような問いだった。
今のセラフィーナの声には確信がある。半年間、俺の横で見続けてきた女の確信だ。
「お食事の席でも。深夜の地図の時も。交渉の場でも。私の前であなたの目は、何度も変わりました」
翡翠の瞳が、逸れない。
「見透かすような目、と仰いましたわね。あの時はそれで納めました」
声が低い。丁寧語の形を保っているが、芯が震えている。
「でも、見透かすだけなら、今のあなたの顔にはなりません」
俺の顔。今、どんな顔をしている。
「計算が止まっている顔ですわ。あなたが計算を止めたのを、私は初めて見ました」
セラフィーナの声が、夜の書斎に落ちた。蝋燭の芯が微かに音を立てた。
「あなたの目で、私の何が見えているの?」
口が開いた。計算ではなかった。
「……お前の中で、何かが変わった」
セラフィーナの睫毛が震えた。
「それが……見えない」
自分の声が遠かった。こんな言い方をする俺を、俺は知らない。
翡翠の瞳が目の前にある。蝋燭の灯りが揺れるたびに、緑の奥に橙の光が泳ぐ。
セラフィーナは何も言わなかった。
俺は、見えないことが怖い。そのことだけが、はっきりと見えていた。




