98 目覚めの誓い
アリシアが執務室を出た後、エルフナルドも駆けるように執務室を後にした。
ユリアの部屋の前に立ち、エルフナルドは扉に手をかけたまま、深く息を吸い込んだ。
その瞬間、部屋の中から大きな物音が響いた。
反射的に、エルフナルドは扉を押し開けた。
「……!」
視線をベッドへ向けるが、そこにユリアの姿はない。
嫌な予感が胸を突き抜け、エルフナルドは部屋の奥へと駆け寄った。
ベッドの向こう側の床。
そこに、倒れ込むようにして座り込んでいるユリアの姿があった。
細く息をつきながら、必死に身体を起こそうとしている。
「ユリア!? 大丈夫か!」
エルフナルドは膝をつき、思わずユリアの顔を覗き込んだ。
青白い頬、わずかに乱れた呼吸。
それでも――確かに、生きている。
「へ、陛下……」
ユリアは驚いたように目を見開き、すぐに申し訳なさそうに視線を落とした。
「申し訳ございません……。ベッドから降りようとしたのですが……足に力が入らず……」
言葉を紡ぎながら、ユリアは自分の手足へと目を向けた。
赤黒く変色したままの指先。
毒によって壊死しかけ、奇跡的に切断を免れたものの、元には戻らなかった痕。
――もし意識を取り戻しても、麻痺や歩行困難が残る可能性がある。
医官の言葉が、エルフナルドの脳裏をよぎる。
「……お前は、一か月近く眠っていた」
声を落とし、エルフナルドは続けた。
「無理をするな」
それ以上、手足のことには触れなかった。
代わりに、ユリアの体をそっと抱え上げた。
「へ、陛下!?」
突然のことに、ユリアは小さく声を上げた。
「どこへ行こうとした?」
エルフナルドは、抱き上げたまま静かに問いかける。
「……少しだけ……外の空気を……」
俯いたままの、小さな声。
「バルコニーでいいか?」
そう言って、エルフナルドは返事を待たずに歩き出した。
「だ、大丈夫です! 陛下にそんな……」
「構わない」
短く、しかし揺るぎない声音だった。
バルコニーへ出ると、夜気がゆるやかに頬を撫でた。
エルフナルドは長椅子にユリアを座らせ、ゆっくりと手を離した。
「あの……ありがとうございます……」
ユリアがそう礼を述べると、エルフナルドは返事をせず、そのまま外を見つめていた。
夜空を仰ぐ背中は、どこか張り詰めている。
「あの……陛下……」
「どうした?」
振り返ったエルフナルドと、視線が交わる。
ユリアは意を決したように顔を上げた。
「お父上と……フレドリック様の事、申し訳ございませんでした……」
言葉を選びながら、ユリアは一つひとつ続けた。
「謝罪して済む問題ではないと承知しております。……罪は、必ず償います。どのような処分であっても……」
ユリアは固く目を閉じた。
震えを必死に押し殺す、その姿。
「ユリア」
エルフナルドは一歩近づいた。
「お前に、罪などあるはずがない」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「謝るべきは私だ。……私が、もっと早く気付くべきだった。お前にどれほど辛い思いをさせたか……すまない」
そう言って、エルフナルドは深く頭を下げた。
「お、おやめください!」
ユリアは慌てて声を上げた。
「陛下が頭を下げるなど……! 陛下は何も悪くありません。いつも私を助けてくださいました。あの日も……」
「いや……私の責任だ」
エルフナルドは目を伏せたまま、続ける。
「父上が何か企んでいることは、最初から分かっていた。……それでも、まさかお前を……」
言葉が詰まり、エルフナルドは目を閉じた。
「陛下……」
ユリアは一瞬迷い、それから恐る恐る尋ねた。
「お父上と……フレドリック様は……その……」
沈黙が落ちる。
やがて、エルフナルドが口を開いた。
「……フレドリックは意識を取り戻している。処置も済み、状態は安定している。市場近くの館に幽閉している。父上も目を覚まし……今は王宮の地下牢にいる」
「……そう、でしたか……」
ユリアの胸に、安堵と、割り切れない感情が同時に広がった。
「生かすと決めたのは私だ。……だが、もう二度と、お前に手を出させはしない。必ず、私が守る」
「……陛下が、お父上を殺していないと分かって……安心しました」
ユリアは小さく息を吐いた。
「あの日……私は、一人で全てを終わらせるつもりでした。陛下の手を汚させるつもりなど……なかったのです」
「父上は……お前にしてきたこと以外にも、数え切れぬ罪を犯してきた」
エルフナルドは拳を強く握りしめた。
「国のためなどと口にしていたが、真実は違う。ただ、支配したかっただけだ……。私はそれを分かっていながら……止められなかった」
「……そんなに、ご自分を責めないでくださいませ」
ユリアは、静かに言った。
「陛下はこの国を良くしようとしてくださっていました。ユーハイム国も……本当に暮らしが良くなりました。私は……この国の王が、陛下で良かったと思っています」
少しだけ、声を落として続ける。
「陛下が守っておられる平和を……私も守りたかった。ただ……一人で抱え込むべきではなかったのです」
「……お前の立場なら、無理もない」
エルフナルドは首を横に振った。
「もう、自分を責めるな。お前を責める者など、誰一人いない」
――……私もだ。
ユリアは何かを言いかけて、やめた。
エルフナルドもまた、同じように口を閉じた。
それから二人は言葉を交わさず、ただ夜空を見上げていた。
静かな時間が、ゆっくりと流れた。
やがて、エルフナルドが口を開いた。
「少し冷えてきた」
エルフナルドはユリアを支えながら、部屋へ戻った。
「明日の朝、医官を手配しておく。私は隣の部屋にいる。何かあれば声を出してくれ。護衛もつけている」
「……ありがとうございます」
ユリアのその言葉に、エルフナルドは一瞬だけ足を止め、静かに頷いた。




