97 意識の果て
エルフナルドはユリアの部屋に入ると、静かに扉を閉め、ベッドの横に置かれた椅子に腰を下ろした。
部屋には、薬草と消毒薬が混ざったような、かすかな匂いが漂っている。
眠ったままのユリアの顔を見つめたまま、エルフナルドはアシュリー王の言葉を思い返し、無意識のうちに拳を強く握りしめていた。
――ああ……。ユリアはどれほど辛かったことだろう……。
心も、体も、尊厳さえも踏みにじられながら――
それでもユリアは、自分の危険を顧みず、私を守ろうとした。
――この手を、決して離してはいけなかった。
片時も、離れるべきではなかったのに……。
エルフナルドは震える息を整えながら、そっと手を伸ばし、ユリアの冷たい手を包み込むように握った。
そのまま額を下げ、声を絞り出す。
「すまない……。本当に……すまない……。どうか……どうか、目を覚ましてくれ……」
それは謝罪であり、懺悔であり、祈りだった。
エルフナルドは何度も何度も同じ言葉を繰り返し、ユリアの手を離すことができずにいた。
しばらくして、控えめなノックの音が部屋に響き、扉が静かに開いた。
「陛下。少しご相談したいことがあるのですが……今、お時間よろしいでしょうか?」
顔を上げると、そこにはカリルが立っていた。
「ああ。……執務室で聞こう」
名残惜しそうにユリアの手をそっと離し、エルフナルドは立ち上がると、カリルと共に部屋を後にした。
***
その日の晩。
部屋の外はすっかり闇に包まれ、窓の外からはかすかな虫の音が聞こえていた。
アリシアが静かにユリアの部屋へと足を踏み入れる。
「ユリア様……。今夜は少し暑くなるようですので、氷を枕元に置かせていただきますね」
眠ったままのユリアにそう語りかけながら、アリシアはベッド脇のテーブルに、氷を入れた大きめの皿をそっと置いた。
「……アリ……シア……?」
かすれた、しかし確かに聞き覚えのある声。
アリシアは一瞬、自分の耳を疑い、次の瞬間、勢いよくユリアの方を振り返った。
「ユリア様!!」
ユリアは薄く目を開け、ぼんやりとアリシアを見つめていた。
「お目覚めになったのですね!! 本当に……本当に良かった……! ご気分は? どこかお辛いところはありませんか?」
感極まったように声を震わせるアリシアに、ユリアはゆっくりと微笑み返した。
「大丈夫よ……。心配かけて、ごめんね……」
「すぐに医官の方をお呼びしますね!」
アリシアは慌てて踵を返し、扉へと向かおうとする。
「待って……」
ユリアのか細い声に、アリシアは足を止めた。
「もう……日も暮れているし……。医官の方をお呼びするのは、明日で大丈夫よ……。それに……」
ユリアは自分の手足にゆっくりと視線を落とした。
「……たくさん、処置をしていただいたみたいだし……。今は、特に問題ないわ……」
「ですが……」
「本当に……大丈夫……。もう少しだけ……寝かせて?」
そう言って、ユリアは小さく息を吐き、再び目を閉じた。
「……分かりました。何かありましたら、すぐにお呼びください」
「ありがとう……」
ユリアは一度だけ目を開け、アリシアに視線を向ける。
「本当に……たくさん……心配かけて、ごめんね。
……いつも、こうしてお見舞いに来てくれていたのね……」
そう言って、ベッド脇のテーブル――氷や花、水差しが並ぶそこに目を向けた。
「そんな……。私には、こんなことくらいしか出来ませんので……」
「とても……嬉しかったわ……。ありがとう……」
ユリアはそう呟くと、今度こそ静かに眠りに落ちた。
規則正しい寝息を確認し、アリシアは胸に手を当て、深く息をつく。
そして小さく頭を下げ、音を立てぬよう部屋を後にした。
その足でアリシアは、エルフナルドの執務室へと急いだ。
「今日はこのくらいでお休みになられては、いかがでしょうか」
時計に目をやりながら、カリルが声をかける。
「ああ……そうだな。遅くまで付き合わせて、すまなかった」
エルフナルドが椅子から立ち上がった、その時だった。
コンコンッ
執務室の扉を叩く音が響き、カリルが扉を開けると、息を切らしたアリシアが立っていた。
「遅くに失礼いたします! どうしてもお伝えしたいことがありまして……!」
「何かあったのか?」
その切迫した様子に、エルフナルドは眉をひそめる。
「ユリア様が……先程、お目覚めになられました!」
「……本当なのか?」
エルフナルドとカリルは、同時に息を呑み、アリシアを見つめた。
「はい。私が部屋を訪れたところ、確かに目を開けられました。医官をお呼びしようとしたのですが……明日で構わないので、もう少し休ませてほしいと……」
「……そうか」
エルフナルドの表情に、ほっとした安堵の色が浮かぶ。
「今は……また眠っているのか?」
「はい。お話をされた後、すぐに眠りにつかれました。……医官をお呼びした方が良かったでしょうか。私、判断に迷ってしまって……」
「いや、構わない。私も少し様子を見に行こう。医官には明日の朝、改めて診察するよう伝えておく。……よく知らせてくれた。ありがとう。お前も、もう休みなさい」
「はい……」
エルフナルドはそっと頷き、控えめに息を吐いた。




