94 宝物と祈り
夜が明けきらぬうちから、王宮は異様な緊張に包まれていた。
市場の近くの屋敷で起きた一連の出来事は、瞬く間に医師たちの耳にも届き、市場の医者たちとクリックが、王宮へと駆けつけていた。
血の匂いと薬草の匂いが入り混じる中、夜通しで手当てが施されたが――その晩、ユリアが目を覚ますことはなかった。
やがて朝が訪れても、ユリアは静かな呼吸を繰り返すばかりで、瞼が開くことはない。
エルフナルドは一度もその場を離れなかったが、翌日、ユリアの容態が一時的に落ち着いたと聞き、隣の部屋で治療を受けているフレドリックの元を訪ねた。
フレドリックは右手首と左足首を切断され、重傷ではあったものの、処置が早かったためか、意識はすでに回復していた。
しかし――
その目は、どこも見ていなかった。
実の父に手足を切り落とされたという事実は、身体以上に、フレドリックの精神を深く蝕んでいたのだろう。
虚ろな瞳は、どこを見ているのか分からず、生気を完全に失っていた。
それでも、エルフナルドの問いかけには抵抗することなく、アシュリー王に命じられていたこと、そのすべてを語った。
ユリアの力のこと。
子を成す計画。
王位を巡る思惑――。
話を聞く間、エルフナルドは何度も、フレドリックを殴り倒したい衝動に駆られた。
だが、それを必死に抑え、ただ、強く目を閉じるしかなかった。
すべてを聞き終え、エルフナルドは何も言わず、その場を後にした。
そして、再び――ユリアが眠る部屋へと戻った。
静まり返った室内。
寝台の横に置かれた椅子に腰を下ろした瞬間、エルフナルドの視界に、ふと見覚えのあるものが映った。
ベッド脇の小さなテーブルの上。
そこに置かれていたのは、一つの封筒と――
その上にそっと乗せられた、ブレスレット。
かつて、エルフナルドがユリアに渡した、あの少年のブレスレットだった。
胸の奥が、静かに軋んだ。
エルフナルドはゆっくりとテーブルに近づき、ブレスレットの下にあった封筒を手に取った。
――エルフナルド様――
このような手紙を書き残す事、お許しください。
エルフナルド様の弟君を手にかけた事、本当に申し訳なく思っております。
どのような理由があろうとも、私がしてしまった事は決して許されるものではありません。
それでも……どうか、最後まで読んでいただけますでしょうか。
私の力が人に知られてしまった以上、先王陛下やフレドリック様だけでなく、きっとこれからも、この力を求める者が現れます。
そのたびに争いが生まれ、誰かが傷つき、そしてまた、貴方が苦しむことになる。
その争いに、もう貴方を巻き込みたくなかった……。
私が生きている限り、この力は利用され続けます。
争いの火種は消えません。
だから私は――
この身をもって、終わらせる事を選びました。
私は、貴方の隣にいるべき人間ではありません。
それでも……私が生きてきて、唯一、この力があって良かったと思えた事があります。
それは、あの雨の日、エルフナルド様をお救い出来たことです。
本当はずっと、勝手にお救いしてしまった事を後悔しておりました。
大きな古傷を残してしまったから……。
けれど、感謝していると言っていただけたあの日、初めて、自分を誇ってもいいのだと思えました。
私が、このアルジール国でエルフナルド様と共に過ごした時間は、私にとってかけがえのないものでした。
辛い事ばかりの人生でしたが、最後に貴方に出会えた事。
それだけで、生きてきた意味があったと思えました。
エルフナルド様。
私は、貴方をお慕いしておりました。
私がお慕い申し上げたのは、貴方だけです。
どうか、この国を、争いのない場所へ導いてください。
エルフナルド様なら、きっと出来ると信じております。
貴方の幸せを、心から願っております。
どうか……どうか、幸せになってください。
最後に、一つだけ我儘をお許しください。
エルフナルド様からいただいた、このブレスレットを、
私と共に埋めていただけませんか。
私にとって、それは唯一の宝物でした。
この我儘を、お許しください。
ユリア
最後の一行まで読み終えたとき、エルフナルドの手は、微かに震えていた。
手紙を握りしめ、彼は静かに目を閉じる。
「ユリア……」
その名を呼ぶ声は、あまりにも遅すぎた。




