91 静寂の刹那
本日から第8章です。よろしくお願いします。
屋敷に戻ると、すでにフレドリックは帰宅していた。
その事実を知っただけで、ユリアの心臓が一度、大きく脈打つ。
逃げ場はない。
今日だと、分かっていた。
ユリアは機械的に着替えを済ませ、指先の震えを抑えるように何度も握っては開いた。
ポケットの中で、小瓶がわずかに触れ合う。
――落とすな。
割るな。
最後まで冷静に……
「失礼します」
ノックして扉を開けると、フレドリックは椅子に腰掛け、無言でこちらを見ていた。
その視線は、すでに“所有物”を見るものだった。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
頭を下げ、向かいに座る。
背筋を伸ばしていなければ、今にも崩れ落ちそうだった。
「医官から結果は聞いた」
低く、断定的な声。
「次は必ず身籠ってもらう。体調管理を怠るな」
一瞬、言葉を切る。
「次に何かあれば……分かるな?」
「……はい」
それ以上、会話はなかった。
食事の音だけが、やけに大きく響く。
ユリアは味のしないパンを噛みしめながら、頭の中で何度も自分のこれからの行動をなぞっていた。
――怪しまれてはいけない、“自然に”。
食事が終わると、ユリアは静かに口を開いた。
「あの……紅茶でも、お飲みになりますか?」
「不要だ。支度を終えたら部屋で待っていろ」
そう言い残し、フレドリックは部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、ユリアは息を吐いた。
肺の奥に溜まっていた空気を、すべて吐き切るように。
手のひらは、汗で湿っていた。
しばらくして、フレドリックが戻ってくる。
冷たい視線が、ユリアを上からなぞる。
ベッドに座るユリアに覆いかぶさり、乱暴に身体へ触れてきた。
反射的に身が強張る。
だが、それを悟られてはいけない。
「あの……フレドリック様……」
声が、思ったより掠れていた。
「……抵抗など、致しませんから……」
喉を絞るように言葉をつなぐ。
「どうか……優しく……お願いします」
震える手で、フレドリックの胸に触れた。
「……ならば、俺を昂らせてみろ」
低く、苛立ちを含んだ声。
「抵抗されるのも腹が立つが、何の反応もないのは興ざめだ」
「……分かりました」
ユリアはゆっくりとシャツのボタンを外した。
身体を寄せ、触れ、求められる行為を淡々と続ける。
――……大丈夫。
……ここまで、耐えてきた。
フレドリックの呼吸が、徐々に乱れ始めた。
「……やればできるじゃないか」
命じられるまま、ユリアはさらに触れる。
直接、舌で。
その間、ユリアの心は奇妙なほど静かだった。
――これでいい。これで、終わる。
「……はぁ……」
フレドリックの喉から、甘い吐息が漏れた。
ユリアは顔を上げ、フレドリックの頬に手を添える。
ユリアは小瓶の中身を一気に口に含んだ。
そして――フレドリックに、深く口づけた。
その直後。
「……っ……?」
フレドリックの身体が、僅かに強張った。
「……おい……?」
声が、かすれる。
次の瞬間、喉を押さえ、ユリアを突き飛ばした。
「ぐ……っ!」
ベッドに倒れ込み、苦しそうに喘ぐ。
「な……にを……した……?」
喉の奥を掻きむしるように指を当て、必死にもがく。
ユリアは床に座り込んだまま、その姿を見下ろしていた。
「……毒です」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「最初は……喉の痺れ。次に、手足の感覚が鈍くなります。
数十分もすれば、四肢から壊死が始まります。……そして、全身に回って……死にます」
「ふざけ……るな……! 解毒薬を……!」
「ありません」
「なら……治せ……! お前の力で……!」
フレドリックは震える指先を見つめ、恐怖に目を見開いた。
「……もう、指が動かしづらいでしょう?」
ユリアは自分の手を見る。
同じように、かすかに震えていた。
「……私も、同じ毒を飲みました」
フレドリックの目が大きく見開かれる。
「貴方が死ぬのを見届けたら……私も死にます。そうすれば、この力は二度と悪用されない」
「フレドリック様と……先王陛下の思い通りには、させません」
「ふざけるなあああ!!」
痺れた身体を無理やり起こし、ユリアの頬を殴る。
「……っ」
床に倒れ込む衝撃。
「嘘をつくな! 治せ……治せえええ!!」
怒鳴りながら、何度も殴りつけてくる。
「あまり……動かない方がいいと思います」
殴られた頬を押さえながら、ユリアは微かに笑った。
「驚くほど毒が早く回りますから。……もう、その腕にも、かなり来ているはずです」
フレドリックの腕が、途中で止まる。
力が、抜けていく。
フレドリックは、ユリアの揺れ続ける指先を見て、言葉を失った。
ユリアの言っていることが本当だと――
本当に自分を殺そうとしているのだと。
そしてユリア自身も……。
「頼む……! もう抱かない! 子も諦める! だから……!」
床に這い、縋るように手を伸ばすフレドリック。
ユリアは、ただ首を横に振り続けた。
「嫌です……」
「この時を……どれほど待ち望んだか……」
その目に、迷いはなかった。
――この力がある限り、争いは終わらない。
だから、自分が消えるしかない。
何日も、何日も考え抜いた結論だった。
絶望に歪むフレドリックの顔を、ただ静かに見つめていた。




